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トルストイ--生きる光を見失って

石田昭義氏(地の塩書房主)トルストイの散歩道 略年譜より抜粋
『懺悔』トルストイ 訳:原 久一郎氏 一部参照

1882年『懺悔』を発表。発禁処分にあう。

この書の中で トルストイは次のように回想し告白する。

私がまだ50歳未満の時分...

私には 愛し愛される善良な妻と いい子供達と
別に骨を折らなくても ひとりでに増大していく莫大な財産があった。
私は それ以前のどの頃よりも、友人や知人から尊敬され、
見知らぬ人達から賞賛された。
そして ことさらに自己をいつわらなくとも、
自分の名声を 日の出の勢いであると考えることができた。
精神的にも 肉体的にも、
自分と同年配の人々にはめったに見かけられないような
素晴らしい精力を享有(きょうゆう)していた。
(享有=権利・能力などを、人が生まれながら身につけて持っていること)

そんな健康で幸福であるはずのトルストイの中に
奇妙にも「どう生きたらいいのか、何をしたらいいのか分からなくなる
といった生命力の停滞ともいう瞬間」が起きはじめた。

お前は、ますます増加する莫大な財産を手にするだろう
--- でも、それが どうだというのだ?

お前は、世界のすべての作家以上に名声に輝くかもしれない
--- でも、それが どうだというのだ?

私は 何故 生きているのか? いったい私は何者か?

それはまさに、

「この年まで成熟して 心身共に発達し、
人生の展望が開ける
生の頂点に達して、

さてそこで、見渡してみれば、

人生には 何もないし、
過去にも なかったし、
未来にもないであろうことが はっきりと分かって

バカみたいに ぼんやりと その頂点に立っている

といった心の状態であった。

だからといって、
お前は 生の意義は 悟りっこない。
考えるな。 ただ 生きよ。」と言っても、
そんな訳には行かない。

私は 以前から、あまりに長い間、そんな風に暮らして来すぎたのだから。

トルストイは、自然科学から哲学まで、
人間が獲得したあらゆる学問の中から、
その疑問に対する説明を探した。

--- それでも なんにも 見つからなかった。

その間、自殺の想念が ごく自然に生じてきた。

やがて、トルストイは その解答が
自ら不合理と考えていた「神への信仰」の中にあることを
それも、無学で貧しい 素朴な 額に汗して働く農民や
労働者の信仰の中にこそ あることを悟る。

私は、神を感じ、神を求めるとき、そんな時だけ よみがえり、
まぎれもなく生きていることに気付く

かくて私の内部 および周辺において
すべてが いまだかつてなかったほど 明るく輝き、
そしてその光は もう 決して私を離れなかった。

---しかし この大転換は、
ある日 突然に私の内部に生じたのではない。
何十回何百回と、喜びと生気、それに続く絶望と
生存不可能の意識を繰り返して、
いつのまにか 徐々に 生の力が私に帰ってきたのである。

こうして生きる光を得たトルストイは、
さらに信仰の問題を掘り下げながら、
自身はルパシカ(厚地の白麻製民族服)を着、
野に出て田畑を耕し、肉食を断ち、
野菜と黒パンを糧(かて)としながら、
今まで書いてきた『戦争と平和』や
『アンナ・カレーニナ』などの大作を否定し、

民衆とともに生き、人生のために有益な 
しかも一般の民衆に理解されるものを
民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、
単純に、簡素に、わかり易く書こう
と決意するのである。

そのような中から 次々と 民話が誕生した。

 
お勧め:トルストイの散歩道 全5巻 
訳:北御門二郎氏&編者:石田昭義氏&装丁:和田誠氏

トルストイ 『文読む月日』 訳:北御門二郎氏

    

Leo Tolstoy トルストイ--『愛あるところに 神あり』
日露戦争中--トルストイと日本人
(トルストイの書簡---安部磯雄(『平民新聞』代表)との書簡)
すべての生きとし生けるものの魂 (トルストイ 『人生論』 他)

トルストイ【懺悔】北御門二郎(翻訳)

ヴォルテール 『道徳は一つ』Morality is one, it comes from god.Dogmas differ, they are ours.

Voltaire (21 November 1694 – 30 May 1778)
was a French Enlightenment writer, essayist, and philosopher


ヴォルテール『哲学辞典訳:高橋光安氏 抜粋・編集
PHILOSOPHICAL DICTIONARY

Dictionnaire philosophique pp.105-106

正と不正 Juste (Du) et de l'Injuste

正と不正についての感情を われわれに与えたのは誰か?

脳と心臓を われわれに与えた神 である。

つつましく物乞いする貧者を殺したり 眼をくりぬくよりも、
余分のパンや米やマニホット(タピオカ)を彼に与えるほうがよいことは
あなたがた すべてが ひとしく認めていることである。

恩恵serviceが 陵辱(りょうじょく)injuryより正しく、
温情gentlenessが 憤激angerより好ましいことは、
全地上において 明白である。

誠実と不誠実の 微妙な違いを区別するためには
我々の理性を用いることだけが もはや問題なのである。

善と悪は 隣りあっている。
Good and evil are often allied.
Le bien et le mal sont souvent voisins;


われわれの情念が それを混同するのである。

情念=感情が刺激されて生ずる想念(心の中に浮かぶ考え)
Our passions fail to distinguish between them.
nos passions les confondent:

われわれを啓蒙(けいもう)するのは 誰であろうか?

啓蒙⇒もやもやして見分けがつかないもの(蒙)を ひらく(啓)
=正しい知識を与え、合理的な考え方をするように教え導くこと
Who will enlighten us?
qui nous éclairera?

それは、 冷静なときの われわれ自身である。
We ourselves, when we are calm.
nous-mêmes, quand nous sommes tranquilles.

われわれの義務について書いた誰もが 世界中の国々で
立派な書物を著(あらわ)してきた。
なぜならば 彼らは 理性に従ってのみ 執筆したからである。
Whoever has written about our duties has written well
in every country of the world, because he wrote only with his reason.

Quiconque a écrit sur nos devoirs a bien écrit

dans tous les pays du monde, parcequ'il n'a écrit qu'avec sa raison.

ソクラテスとエピクロス、孔子とキケロ、
マルクス・アントニウスとアムラト2世は、同じ道徳を持っていたのだ。
They have all said the same things: Socrates and Epicurus,
Confucius and Cicero, Marcus Antoninus and Amurath Ⅱhad
the same morality.

Ils sont tous dit la même chose:

Socrate et Épicure, Confutzée et Cicéron,
Marc-Antonin et AmurathⅡ ont eu la même morale.

あらゆる人々に 毎日 繰り返して言おう。
Let us repeat every day to all men:
Redisons tous les jours à tous les hommes :

「道徳は 一つであり、それは 神に由来する。
Morality is one, it comes from god.
La morale est une, elle vient de Dieu ;

教義は異なり、それらは われわれに由来する」と。
Dogmas differ, they are ours.
les dogmes sont différents, ils viennent de nous.



イエスは 形而上学的教義を なんら示さず
Jesus taught no metaphysical dogma at all.
Jésus n'enseigna aucun dogme métaphysique ;

神学上の覚え書きも まったく 著さなかった。
He wrote no theological exercises.
il n'écrivit point de cahiers théologiques ;


--修道士や 異端尋問官もつくらず、
今日 われわれが眼にすることは 何も 命じなかったのである。
He instituted neither monks nor inquisitors.
He commanded nothing of what we see today.

il n'a institué ni moines ni inquisiteurs ;
il n'a rien ordonné de ce que nous voyons aujourd'hui.



神は、キリスト教に先立つ あらゆる時代に
正と不正の知識を 与えてくれた。
God had given knowledge of right and wrong in all the ages
that preceded Christianity.
Dieu avait donné la connaissance du juste et de l'injuste
dans tous les temps qui précédèrent le christianisme.


神は けっして変更しなかったし、変更することもできない。
God has not changed and cannot change.
Dieu n'a point changé et ne peut changer :

われわれの魂の根源、理性と道徳の原理は 
永久に 同一であろう。
The essential of our souls and of our principles of reason
and morality will eternally be the same.

le fond de notre ame, nos principes de raison et de morale,
seront éternellement les mêmes.

神学上の区別、その区別にもとづく教義、
その教義にもとづく迫害は、
善徳にとって なんの役に立つのであろうか?
Of what use to virtue are theological distinctions, dogmas based
on these distinctions, persecutions based on these dogmas?

De quoi servent à la vertu des distinctions théologiques,
des dogmes fondés sur ces distinctions, des persécutions fondées
sur ces dogmes?

自然が--これらあらゆる野蛮な作為にぞっとして
猛然と反発し
--すべての人間に 大声で叫ぶ
Nature, frightened and aroused with horror against all these
barbarous inventions, cries out to all men:

La nature, effrayée et soulevée avec horreur contre
toutes ces inventions babares, crie à tous les hommes :

「公正であれ。詭弁(きべん)を弄する(=操る)迫害者たちになるな」と。

詭弁(きべん) =道理に合わないことを強引に正当化しようとする弁論。
'Be just, and not sophistical persecutors.'
Soyez justes, et non des sophistes persécuteurs.



ゾロアスターの掟を集約した『サデール』の中に、
次のような賢明な格言を読むことができる。
In the Sadder, which is the abridgement of the laws of Zoroaster,
you can read this wise maxim :
Vous lisez dans le Sadder, qui est l'abrégé des lois de Zoroatre,
cette sage maxime :

「人が汝(なんじ)にすすめる行為の正、不正が確かめられないときは
汝(なんじ=あなた)自ら(みずから=自身を つつしめ」。
'When it is uncertain whether an action you are asked to take is
right or wrong, abstain'

'Quand il est incertain si une action

qu'on te propose est juste ou injuste,
abstiens-toi.'

かつて 誰がこれ以上に素晴らしい規則を与えてくれただろうか。
いかなる立法者が これ以上立派に述べただろうか。
Who has ever proposed a more admirable rule?
What legislator has spoken better?
Qui jamais a donné une règle plus admirable?
quel législateur a mieux parlé?

そこには、イエズス会と称する人々がでっち上げた
*蓋然的(がいぜん=ある程度確実)な見解の体系は無いのである。
This is not the system of probable opinions invented by people
who call themselves the Society of Jesus.

Ce n'est pas la le système des opinions probables, inventé par
des gens qui s'appelaient la société de Jésus.



イエズス会士たちによる 宗教的迫害のモランジェ事件に際して
ヴォルテールが書いた『正義に関する蓋然性についての試論』の一節

「私には 半真理も *半確実性も 無いように思える。
物事は 真理か虚偽であり、その中間は存在しない。」


--想起:Trained by the Jesuits but later turning on them,
Voltaire
had this to say about their occupancy in France:
"I really must plume myself for having been the first to attack the Jesuits...Once France is purged of the Jesuits, we can hope that people will realize how shameful it is to be subject to that stupid power, the Church, that set them up." source

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--想起:「考えない」 という選択

小泉龍司氏&森田実氏 対談 抜粋
http://www.ryuji.org/broadcast/dialogue_001/index.html
日本は、平地が非常に少ない資源小国です。
何をしなきゃならんかと言うと、助け合いなんですよね。
日本は助け合いでしか生きていけない国なんですよ。

調和することを通じてですね、日本人は協力し合い助け合い、
そしてそこに道徳が生み出され、常識が生み出され、
この道徳と常識というものを2つの軸にして、
日本という共同体が成り立ってきたわけです。

そしてそれをカバーするのが法律だったんですよ。

ですから、法律と道徳とそれから、常識。
道徳と常識は長い間の日本人の歴史が作ってきたものです。

これをきちんと置いてかないと社会は崩壊するわけです。

ここに、最近の自由主義思想の大きな失敗があるんだと思うんです。  

--想起:キリストの居ない”キリスト教”

『インディアンの大予言』サン・ベア&ワブン・ウインド 
訳:加納眞士氏/三村寛子さん

宗教的指導者たちは、

その宗教に属さない者は誰でも、
生贄(いけにえ)となるべき格好の獲物であると教えている。

中村元対談集Ⅳ 日本文化を語る以下抜粋

中村元氏
「宗教」はもともと仏教の言葉であり、「宗」と「教」とは違う。
「宗」というのは、もとのもの。
これは言葉では言えない言語表現を超えた根本のものである。
それを人々に説く時に「教」になる。
「教」は、時によっては 不適当になれば変えてもいい。捨ててもいい。
けれど、そのもとのもの、これを無視してはならない。  

梅原猛氏
日本の場合、何かそのもとにある「宗」と、
出てきた教えとは、だいぶ違っている。
もとにあるものは、日本人の生活に溶け込んでいて、
それは必ずしも言葉や思想として表現されない。
それを大切にすることが一番大事だと私も思います。

もと というのは、人類の最も古い宗教じゃないでしょうか。
旧石器時代の人類にとって普遍的な宗教ではないかと思います。

そういうものにもう一度、人類は返らないと、

宗教が逆に対立を助長する。

そういう意味では、日本人の精神生活の根底に、
人類の最も古い、「宗」の宗教が残存している。

私は、日本の宗教は、そういう「」の宗教が根本にあり、
その上に、禅とか、日蓮とか、浄土とか
「教」の宗教が加わったものと思っています。

一緒で幸せ--「布施」の心


ひろさちや氏『般若心経入門』 以下抜粋

「布施」(ふせ)というのは、簡単に言えば

人に 財物・金銭を 施(ほどこ)すことです。

あげる ことです。

しかし、「布施」と「お恵(めぐ)み」は 違います。

「お恵み」は、貰(もら)った人が お礼を言わねばならないものです。

「布施」は、施(ほどこ)した人が お礼を言うものです。

☆     ☆     ☆

一つのケーキを 2人で分けて食べて、

そのほうが おいしい と思える心-- それが 布施の心です。

どうすれば、そのような心になれるでしょうか?

簡単です。


わけてあげた人が、相手に、

「あなたが一緒に食べてくださったので、

おいしくいただくことができました。ありがとう」

と お礼を言えばいいのです。


そうすると、ケーキは必ず おいしくなります。

おいしくなる ということは、幸福になれる ということです。

☆     ☆     ☆

もちろん、2人にケーキが二つあれば、

それぞれ 一個ずつのケーキを食べると おいしいのです。

ところが、

2人の人間に ケーキが10個あるとしてください。

2人はそれぞれ 5個ずつのケーキを食べねばなりません。

ねばならない のです。



私たちは 経済大国 を作りながら、

何か精神的に 満ち足りない気持ちでいます。

その原因は、心のところにあるのです。

経済的に豊かになれば、むしろ本当の幸福がわからなくなる

--私は そう確信しています。

☆     ☆     ☆

『 般若心経(はんにゃしんぎょう) 』 は

本当の幸福は、「布施の心」を持つことによって得られる

--と、われわれに 教えてくれています。

みせかけの幸福ではなしに、
真の幸福とは何かを語っているのです。

その意味で、『般若心経』は、
現代日本人にとって 大事な経典です。
まさに 「現代的」な経典だといえます。
☆     ☆     ☆

〔からくり人形〕の技--技術立国日本の原点

和を継ぐものたち小松成美さん 以下抜粋

尾陽木偶(びようでく)職人 
玉屋庄兵衛(たまやしょうべい)さん
300年来の伝統技術を今に伝える
世界で ただひとりの からくり人形師

--- からくり人形といえば、畳の上でカタカタとお茶を運ぶ
「茶運び人形」が いちばんお馴染(なじ)みですが、
玉屋さんは それを大英博物館に寄贈されたそうですね。

はい。博物館から依頼を受けたので 納めてきました。

基本的には ゼンマイを巻いて、誰でもできる動かし方です。


尾張藩では 神社のお祭りが盛んで、
からくり人形も ものすごく需要があったんです。

日本国内の からくり人形の9割方は、この尾張地方で、

当時から山車だけでも370、
人形の数だけでも 350は あったようですからね。

--- 尾張が からくり人形の中心地になったのは、
人形を作るための素材が豊富にあったことも関係しているのでしょうか?

それもあります。

今もそうですが、木曾(きそ)のヒノキとか、岐阜にはカリン、カシ、ツゲなど
人形の材料になる 堅い木が集まる市場がありましたし。

--- 一番いいものを 最初に手にすることができたわけですね。

そうです。
からくり人形は だいたい一体に 4~5種類の木を使って
作られています。

それが 何百年ももって、今でも同じ状態で動いているんですよ。


第二次世界大戦の前に

戦争体制で 祭りが禁止になって以来、

しばらく からくり人形が脚光を浴びない時代が続いたんです。

戦争中には 名古屋市内は 戦災でほとんど焼かれ、

道具もなくなって、職人もいなくなった。

戦後になって、復員した父が 再び からくり人形に取り組み、

修理や復元を 少しずつ始めた という状況だったんです。

-- そこから再び 
世間の注目を浴びるようになったのは いつ頃なのですか?

兄と僕が 父に入門した昭和54年ごろでしょうか。

マスコミで たびたび からくり人形が取り上げられて、

人形師がいるんだ ということがわかって、

京都の祇園祭や 高山のお祭りからの仕事が
ものすごく 多くなっていきました。


人形は 自分が死んだあとも 何百年も残るものですから、

半端なことは できません。

今でも、 二代がつくった人形は しっかり動いているんですよ。

からくり人形の技術は、江戸中期には もう 完成されていますから。

--- つまり、約300年前につくられたものが、
今でも 完璧に動くんですね。 機械では ありえない。

それは 木を使っているからです。

これがプラスチックだったら、

劣化して パキンと割れたり 
歯車の穴が大きくなって 動かなくなったり、

たぶん 10年も もたないと思います。

木というものは すごいものだなと、
昔の人形の修理をしながら いつも思います。

--- お人形の各部によって
使う木の種類も 違うのだそうですね。

ええ。それも 昔のままのやり方です。

よく動く支軸(しじく)や ピンには 堅いアカガシ、

歯車にはカリン、頭や足には 細工がしやすいようにヒノキ、

胴には 反(そ)りにくいサクラという具合です。

頭は 能面づくりの技法で つくります。

--- 木という素材のすばらしさプラス、日本人の手先の器用さも
からくり人形のすばらしさを 支えているわけですよね。

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ひとつ 心配なことがある。

動力のゼンマイに クジラのヒゲを使うのですが、

今はもう 捕れない。

少しは備蓄しているものがありますが、

代用品を使う気はないので、将来が とても不安です。
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--- 設計図を残さない というのは、
人形のつくり方が秘伝だからでしょうか?

それもあります。

だから、人形の構造や 仕掛け(からくり)のしくみ、素材など、

すべて覚えるのに 15、6年は かかります。

からくり人形の技は、技術立国 日本の原点だと思います。

人形が動いたらおもしろいだろうな 

という発想から生まれたと思うのですが、

そんな日本人の遊び心と 知恵と技術が、

小さな一体の人形に 凝縮(ぎょうしゅく)されている。

世界に誇れるものだと思います。


☆     ☆     ☆

月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す

われわれの持っている価値観が世界人類の未来に 
なにがしか 役に立つことがあればいい。

それを 世界に広めるとか、教える 
と言うとこれまた語弊(ごへい)があるのでしょうが

日本人が 日本人であることを深く自覚しているかぎり、
そして それを 喪失しないかぎり、
いずれ そうなってくるような気がするんです。

日本人が戦闘的になったら、
彼らの文明と 変わりない ということになってしまう。

その意味では、日本人は あるがままに、

「保守」の意識でいることが第一だと思うんです。

虫の声、花のささやきを聞いて の続き

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

大和民族は 世界で一番 物欲の薄い民族でした。

豊かな自然環境と、 
他民族の侵略の ほとんどなかった奇跡的な歴史のために

特に 金銭的な貪欲さに対し、長いこと 無縁でした。

誰もが皆 「お互い様」で生きているという哲学が

このクニには 古代から伝統的に 根付いていました。



金銭・物欲の独り占め志向、

そのみなもとである 土地・領土の拡張を発端とする「量の文明」と、

人間関係(人事)の和
最優先とする価値観を持った「質の文明」の違いは、
--書ききれないほどありますが

言葉・言語の彼我(ひが=相手と自分 あちらとこちら)の機能や
性格の違いは、その中でも特に顕著な差異であり、
興味の尽きない問題なのです。

あくまで争(あらそ)い、
すなわち戦争を前提として生まれた「量の文明」は、
言語をも武器として発達させました。

相手を言い負かすこと、自我を主張し、顕示(けんじ)することを
最大の目的とした単語の一つ一つは、
鋭利な刃物のように 鋭い明確性(合理性)を
持っていなければ なりません。

「質の文明」の言葉として発達した

日本語の持つ曖昧(あいまい)さ =直感性 など、
あってはならないわけです。

武器として相手に言い勝ち 説得する言語の技術は、
すでに紀元前5世紀に 訴訟に勝つための必須手段として
シシリアで生まれ 体系化され、
その後 2千年以上もの間 白人社会に継承され、
理論化・実用化 されたのです。

無論、現在の英語をはじめ、すべてのヨーロッパ語は
その流れの中にありますし、日本語以外のすべての言語も
同じような歴史を持っています。

しかし、そのような争いの 
まったくと言っていいほどなかった日本社会では
言葉は武器としてではなく、芸術(ウタ)として、
美として 生まれ発達したのです。

言葉を曖昧(あいまい)にする というのは
決して 人間的能力が劣っているからではなく、

むしろ 逆に 非常に高度な能力なのですが、

それも 日本語が 争いのためではなく、

芸術として 根付いていたことの 証拠なのです。

言葉が 曖昧であるということは、

お互いの感性を 信頼しあい、

婉曲(えんきょく)な話法で
無限のニュアンス(=微妙な意味合い)を
相互に伝達できる という前提がなければなりません。

芭蕉(ばしょう)の発想
すべてを言葉を使って言い尽くすことは まったく価値がない

『古事記』にもあるように、
日本は 言挙(ことあ)げ(= 討論)しないクニ
言霊(ことだま)のクニ】という発想にも 共通しているのでしょう。

言葉の霊力に対する恐れは、

どこかで 美の冒涜(ぼうとく)を慎(つつし)む心と
一致しているように思われるのです。



自明の理
=言葉や概念に対して、理屈で証明することなく それ自体で 明白なこと

ほぼ単一民族で、
同じ感性、同じ発想、同じ価値観を持った民族だったからこそ

この【自明の理】を
私たちは 日常生活のなかに 数多く共有し合って
やってくることができました。

国語・日本語は そうした【自明の理】を基礎として
何千年もの長い歴史のなかで 発展させ 磨きあげた、
世界に類のない 特殊の言語なのです。



日本の言葉に 明確な限定性、
つまり 科学性、武器性がないのは そのおかげです。

日本語は 一つ一つの言葉に
含蓄(がんちく=言葉の表面に現れない深い意味)が豊かであり、

味が深く、 耳とココロにやさしく 柔軟で

限りなく情操(じょうそう)をかきたて、
精神的な創造性と 想像性に働きかけ、
人間の質を 高めるのです。

情操=美しいもの、すぐれたものに接して感動する、情感豊かな心。



常に 他民族の流通が激しく、

戦争が 日常茶飯事だった諸外国では、

逆立ちしても 真似のできない言葉の機能や性格だったわけです。



それが今、

ほとんど 全滅してしまっています。


私たちは 歌を忘れた金糸雀(かなりや)なのです。

私たちは なんとしても 象牙の船を見つけなくてはならないのです。

    

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に 捨てましょか

いえいえ それは なりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
背戸(せど)の小藪(やぶ)に埋(い)けましょか
(背戸=家の裏口、家の後ろの方)

いえいえ それは なりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
柳(やなぎ)の鞭(むち)で ぶちましょか

いえいえ それは かわいそう

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
(櫂=船を人力で進めるための棒状の船具)

月夜の海に 浮かべれば

忘れた唄を  おもいだす

童謡『かなりや』 作詞:西条八十氏 
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支え手(親2+祖父母4+etc)の1人に恵まれて

日本社会-- 家庭-- 父親の不在 断想

虫の声、花のささやきを聞いて

日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係 の続き

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

林氏

--自然の発する音が すべて 言語音としてとらえられる
--それによって神経や感性をも刺激するということだから
--日本人の 鋭敏な感覚や 情緒を育てたことになる。

虫の音がするところで人と会話するのは
2人の人間と同時に会話しているのと 同じような状態になる。


文字どおり、 花のささやきを 聞き取ることができる。

日本人の美意識、「もののあはれ」は、
ここから生まれた というふうに思うんです。

角田氏

言語(ロゴス)と 情緒(パドス)と 自然が 混然一体となった文化の特徴と
日本人の脳の機能は、見事に一致する。

私も、脳の働きのレベルで 
文化論の裏づけがとれたように思っているんです。


林氏
外国人にとっては 左脳は言語(ロゴス)、右脳は情緒(パドス)ですが、
われらが日本人は そんな”器用”使い分けができない。

言語も情緒も 一緒くたに 左に入ってしまう(笑)

ガイジンなら右に行く虫の音が 
日本人には左に入って来るので
それに意味を持たさざるをえず、
一定のカテゴリーに当てはめることになった。

これが、日本語に擬声語、擬態語を
極端なほど多様に、豊富に生み出させた原因ではないか。

そして、これらのことが、外国人と異なる自然認知の精神構造を育て、

自然を人間と対立するものではなく、

一体不離のものとする感覚に導いたのではないか と思うのです。

こうしたゴチャゴチャなところが、

八百万神(やおよろずのかみ)の源であり、

日本人の「心」を 形づくったのではないか。

言語と情緒が ごちゃまぜになっているもの、

それが ハートでもなく、スピリットでもない、

日本人独特の「心」ではないかと。

------------------------------------

角田氏
なるほど。
しかし、そういう日本人の特異性 というものは、

外国人から見たら、決して 愉快ではない というのが、
実のところ、私の正直な感触です。

たとえば アメリカの学問も、随分と政治に影響されているように見えます。

はじめは 少数民族を理解すべきだ
という相対論を掲(かか)げる人たちが頑張っていたものが、

今では 一変して、
ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。

違いは許さない という非寛容が 感じられる。


たしかに、外国人、白人の普遍主義は、例外的な存在に対して
劣等 というレッテルを貼って 排除してきた。

角田氏
逆に、その特異性に対して、
それは 日本人の優越感の現われで 人種差別だという反発もある。

特に 日本経済が世界を席巻していた頃は、

私のところへやって来た欧米の 多くのマスコミが
「角田の本はけしからん」という そんな感じでした。

私は別に 日本人が優れていると言ったわけではない。
違うというのは 上下の意識だと(笑)。
優性だと言っているのと同じだと 決め付けてくるんですね。

林氏
私は、角田さんの学説がもたらす日本人の未来について
いろいろな希望を持っているんですが、
同時に 危惧も 抱いています。

その一つが、こうした 外国人の誤解というか、
排他性なり嫉妬からくる反発ですけれど、

同時に、日本人にも これを”悪用”する人たちが出てくる可能性が
あると思うんです。特異性を 単純に優位性と
置き換えてしまうことは 危険です。

日本人が「角田学説」を利用して
極端な 民族主義、極右的な原理主義的な考えを周囲に向かって
それこそ 上下の意識で 展開するようなことがあってはならない。

しかし、やっぱり同時に、「角田学説」が”武器”であることも確かなんです。

なぜなら 外国人にも通じる科学の領域の話だからです。

直感でものを理解してくれない相手に対しても、
説明、説得が可能である というのは、
日本人が はじめて 手にすることができた武器です。

武器 --というのは言葉が適切ではない
コミュニケーション・ツール とでも言い換えたほうが
良いのかも知れないけれど--
とにかく 唯一のものだ と私は思っている。

そして、われわれはむしろ その特異性を謙虚に自覚した上で、

他者との距離や 差異を きちんと認識することが大切なんだと思うんです。

われわれの持っている価値観が

世界人類の未来に なにがしか 役に立つことがあればいい。

それを 世界に広めるとか、教える と言うと
これまた語弊(ごへい)があるのでしょうが

日本人が 日本人であることを
深く自覚しているかぎり、
そして それを 喪失しないかぎり、

いずれ そうなってくるような気がするんです。

日本人が戦闘的になったら、

彼らの文明と 変わりない ということになってしまう。

その意味では、日本人は あるがままに、
「保守」の意識でいることが第一だと思うんです。

角田氏
日本人のアイデンティティが
現代人において 急速に失われてきたように見えるのは 確かですね。

脳の面では 変わらないんだけれども。

だから 林さんのおっしゃるように
優位性 と単純にとらえるのは問題だけれど、
特異性への 前向きな自覚 
というのは 不可欠だと私も思います。

林氏
若い人にもわかりやすいのが、擬声語、擬態語の多様さですね。

たとえ雨が降る音でも、

ザアザア、シトシト、ポトポト、パラパラ

と、みんな情景が違う。

蝉の鳴く ミンミン、カナカナ

擬態語としての ニョキニョキ、グニャグニャだとか、

こういう表現は、本当に 日本語だけのものですよ。

私は 日本とオーストラリアの両方で
役者志望の青年たちに 演技の指導をしたことがるんですが、

そこで たとえば ヨタヨタ歩いてくれ とか
ヨロヨロ歩いてくれ とかいう注文をすると、

日本人は 上手い下手の違いはあっても

一応区別して それなりの演技をするんです。


ところが、英語には こういう擬態語の表現が無いから、

「タイアード(疲れた感じ)でウォークしろ(歩いてみて)」
みたいな 表現になる。

そうすると、演技にも それが反映される。

言葉がない ということは

要するに、 概念がない ということで 動き(アクション)もない。

だから、日本人から見たら、たとえ名優ダスティ・ホフマンでも、
演技のなかに そういう細かい擬態語、擬声語の演技は
あまり 感じられない。

やっぱり 違うんです。

特異性と どう向き合っていくか -- 日本人の未来

林氏
われわれ日本人が 明治以来、本当に苦労して英語やフランス語、
ドイツ語を学んできたのと 同じような努力を
彼らが 日本語に向けるとは 考えられません。

日本文明の価値 というのは、
彼らの言葉、論理 にあてはめて 容易に説明できるものではない。

たとえば 「ご神木(しんぼく)」という感覚、

なにゆえ その樹木が尊いか ということは

科学的に証明できないけれども、

不可知であっても 尊いと思う日本人の感覚は、

「人間は人間、自然は自然」と 
はっきり区別して認識している彼らからは 遠い世界です。

ここで 虫も 川も、人間も一体であるというのは、
言葉を鍵に考えると 得心(とくしん)がいくんです。

ちょっと極端に言えば、

みんな同じ言葉をしゃべっている。

母音 という母親の膝の上で

万物は みな同胞だ という感覚を

そのまま受け入れているのが 日本人ではないですか。

したがって われわれは 情感を基本として
価値判断をする民族であって、

ロジックだけでは説明しきれないものがある
という自覚が
、--国際化であれグローバリゼーションであれ
言葉はなんでもいいんですが-- これからの日本人には
不可欠である と思うんです。

でもそれは 他者とのコミュニケーションを考えると、
深い深い絶望からのスタートを意味する。

角田氏
日本人の脳が違う というのは、結局 大脳皮質以上に
無意識のレベルでの話 なんですね。

今 日本人を考える時

アジア人であると同時に

一方で 西欧化した日本人という像がある。

実は もう一つあって、

縄文時代以来、日本語を守って

山の中で 古い神様を守ってきたような

それこそ、説明不可能な日本人の原像がある。

私は、これこそが 日本人の本質ではないか

と考えているんです。

無意識に持っている 古神道の世界観、

それを 日本人の脳は
メカニズム(装置、仕組み)として 持っている
と 言い換えてもよい。

林さんのおっしゃるように、

この特異性と
どう向き合っていくか

ということが、

日本人の未来を左右する

と私も思います。
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角田忠信氏
1926年、東京生まれ。
東京医科歯科大学名誉教授
聴覚を通して 脳の機能解明を行なう「角田法」を開発

林 秀彦氏
1934年 東京生まれ。学習院高等科
ザール大(独)、モンプリエ大(仏)に学ぶ。
脚本家「7人の刑事」他 作品多数

    

砂上の楼閣から脱出する

吉川元忠氏

グローバリズムというのは、

基本的にアメリカの都合から出てきたものです。

というのは、アメリカは赤字で、自分の国だけでは食えないからです。

グローバルにいろいろなところに
手をのばさなければやっていけないわけです。

企業価値とは、
その企業の株式の時価総額であるというのが、
グローバリズムの考え方です。

これは企業を売り買いするのに便利なように、
企業の値段をはっきりさせようという
アングロ・サクソン的な発想であり、
要はM&Aをやりやすくするための、
アメリカの都合に基づいているのです。

時価総額をイコール企業価値だといって絶対視する風潮に、
私は疑問を持たないではいられません。

会計制度の問題でも、
時価会計とか減損会計というアングロ・サクソンのルールを、
日本は不況の最中に導入しました。

これも結局は、
M&Aのために企業価値をはっきりさせろということですから、
本末転倒というしかありません。

これ以上、アメリカの都合に振り回されないためには、
アングロ・サクソンの価値観を
無批判に受容することをやめなければなりません。

たとえば企業社会で本当に大事なものは何か、
何が本当の価値なのかということを、
日本人自身が考えていかなければならないと思うのです。

迂遠(うえん)な話をするなら、

結局は思想の問題であって、
アメリカに対抗できる思想体系を
日本は持たなければならないと思います。

哲学や思想、そして『万葉集』や『源氏物語』といった
文化から民族の歴史までをも含めた巨大な思想体系、

あるいは経済思想の体系がなければ、だめだと思うのです。

もう少し一般的なことを言うと、
世界は大変な変わり目を迎えているという認識を持った上で、
戦略を立てる必要があります。

このままアメリカモデルを受け入れ続けて、
どんどんグローバル化を進めていった場合、
日本はアメリカの亜流のような国になるでしょう。

それでいて、バックス・アメリカーナ自体が相当問題を抱えていて、
とくに通貨の問題は深刻です。
日中というと対立関係だけが目立つけれど、
共通の利益を模索しようという考え方まで排除すべきではないと思います。

国際政治学者のジョセフ・ナイは、
自国の価値観を他国にとって望ましいと感じさせ、
協調を生み出す力を「ソフト・パワー」と呼んでいます。

日本のソフト・パワーは何かというと、
それは半導体やデジタル技術などではなく、
先ほど言ったように、最後は思想だと思うのです。

グローバリズム一辺倒の今、
それに対する対抗軸となるような思想を構築しようとしている人が、
世界的に見ればいるようですが、これは大変難しい。

でも、誰かがやらなければ、
アメリカ流のグローバリズムに世界は呑み込まれてしまいます。

日本がアジアに訴えるにしても、
最後はそういう思想が問われることになると思うのです。

    

土地神の声に 耳を澄ます

続き...月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す

日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

日本語 ポリネシア語で育った人の脳は、
母音、子音にかかわらず、音は左脳へ送られる。
虫の音、風の音も 「言語音」と同じように処理されている。

日本語 ポリネシア語以外で育った人にとって
母音は「非言語音」--「雑音」 右脳で聴いている。

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角田忠信氏

日本人が彼らの言葉を翻訳し、互いにコミュニケーションが図れたように思っても、実は 本質の部分では なかなかそうはなっていない。
彼ら--ノン・ジャパニーズですが--から、【日本人の異質性、特異性】が強調されるのはなぜか。そして、われわれも どこか彼らから疎外されているように感ずるのは なぜか。

それはやっぱり われわれが 文化として根強く持っているもの、
下界を認知する枠組み が、彼らと大きく異なっているからなんです。

林氏
その枠組み とは、【日本語】によって形づくられたものですね。

角田氏
そうです。ただ 日本語に行き着くまでには いくつかの過程がありました。

学会に招かれて講演したことがあります。

ある夜、大きな庭園でパーティが開かれたんですけれど、
もう 草ぼうぼうで、コオロギかなにか 虫がしきりに鳴いている。

それが ザアザア雨が降っているような音なんですね。

私には それが虫の音だということがわかる。

ところが、周囲の人間は 誰も その音がわからないんです。

「聴こえない」と言うんですよ。全然 聴こえないと。
ロシア人も キューバ人も みんなです。

音に気付かない。

「先生はきっとお疲れなんです。早くホテルの部屋に帰って
休まれたようがいい」と言うんです。
帰り道に、ひときわ激しく鳴いている草むらで
「ここでたくさんの虫が鳴いているのがわからない?」
と もう一度たずねて、草むらに首を突っ込んで
聴いてもらったんだけれど、「聴こえない」と言うんですね。

ところが、これを学問的にやると、つまりその虫の音を録音して
レシーバーを通して聴かせたら、これは 誰でもわかるんです。

音をモノとしてテープにして聴かせたらわかるけれど、
自然に あるがままの状態だと わからない。

たとえば、同じオーケストラの演奏を聴いても、
訓練を受けた人間と、そうでない人間では
受け止め方、感動に 差が出るでしょう。
そういう訓練なり 能動的な意志を全部取っ払った自然の状態でどうか
というのが 問題なんです。

林氏
たしかに、日本人は 川のせせらぎの音 とか、風の音とか、
虫の音であるとか、そういうものを雑音としては とらえていません。

なにか 意味のあるものととらえているからこそ、
俳句にしろ、和歌にしろ、音の情景描写 というのが豊かなのだと思います。

ここで虫が鳴いていると言っても、見なければわからない人間と、
見なくても その音だけで虫の存在がわかる人間の二種類がいる。

ただ、彼らの場合、”虫の音”とは聴こえていなくても”雑音”としてなら
聴こえているんですか?

角田氏
いや、音そのものが聴こえない場合と、音に気づいても
虫とは気づかないことがあるようです。
ただ、いったんそれを虫の音だと認識したら、以後はわかるんだと思います。
能動的に学習したら わかる。

秘密は 日本語の「音」に

林氏
ホント、不思議ですね。
私は日本を逃げ出して

オーストラリアに住み着いてから14年になりますけれど、
アングロサクソンと日本人は なぜこうも
ことごとく違うのか と嘆息するような毎日です。
それが角田さんの『日本人の脳』を読んだときは、
目から鱗が落ちるというのを実感しました。

私は、白人の文明の基底は キリスト教文明であり、
根本的には嫉妬から発生した文明だと思います。

今のアメリカを見てもわかるように
”富への欲望”と言い換えてもいい。

厳しすぎる環境が、彼らに力を与え、
彼らは 個人としても 民族としても、富の独占を指向せざるをえなかった。

言ってみれば、生き残りの原理です。

この 飽くなき欲望追求が 不可避である以上、
つまり 善 として肯定しなければならないのなら、
宗教は その原動力を何らかの形で擁護し、
行き過ぎを抑制する機能を 持たざるをえない。

今、西欧では それが抑制できなくなっている。

欲望と、嫉妬と、科学が
「神を死なせた」
と言っていいのではないかと思うんです。

私たちにとって厄介なのは、
 
そういう彼らの 嫉妬なり 欲望なりは
日本語で表現できるものではなく、完全に非寛容であり、

反対者を 駆逐(くちく)せずにはおかないものであることです。

しかも 彼らは言語(ロゴス)ですべて解決できると思っている。

彼らにとって 言語は 武器です。

日本人にとって 言語が武器だったことはない。

この決定的な差異を認識しないかぎり

双方にとって 大きな不幸をもたらすと思うんですね。

角田氏
ただ、その脳の差異 は、人種とかDNAレベルのことではありません。

あくまでも 日本語 という言語によるんです。

肌の色、瞳の色の違いが 
脳の機能の違いにつながっているわけではない。

日本語の「音」のなかに 秘密がある。

林氏
日本人の脳の特殊性 というのは、日本語の構造というよりは
音の関係が 深いんですね。

角田氏
そうです。最終的には 母音に大きな意味があると思います。

実験で明らかになったことは、
母音を聴くのは 日本人では左脳で
西欧人では 右脳だということでした。

西欧人の場合は、母音だけだと雑音と同じように右脳で聴いている。

日本人は 母音を 言葉として左脳で聴いている。

母音を左脳で聴く人というのは
”日本語を主に使う人”だということがわかってきた。

その後の調査で
ポリネシア語を話す人たちも
日本人とまったく同じで、
母音を 左脳で聴いている ということが判明した。

そしてこれは 遺伝はまったく関係ない。

たとえば、日本語で育った外国人をテストすると、
日本人と同じように 母音を左脳で聴いています。

逆に 帰国子女の調査をしてみると、
生まれてから9歳くらいまでに使っていた言葉によって、
それが違ってくる ということがわかった。

外国で生まれ育って、5歳くらいで英語べらべらのような子供でも、
6歳以下で 日本に帰って来て、

日本語の言語空間のなかで教育を受けると、
ちゃんと日本語のパターンになるんですね。

要するに、6歳から9歳くらいまでのあいだを 日本語で過ごしたら、
韓国人だろうが、アメリカ人だろうが、それこそ何人であっても、
みんな日本語のパターンになってしまう。

林氏
そう考えると、たとえば外国人の子供でも、
9歳くらいまで日本語で育てられていれば、
そのあと アメリカで暮らすようになっても
俳句や和歌のセンス、その基底部分は持ったままでいられる。

逆に その時期を日本語ではない言語で過ごした人は、
いくら努力しても それがない ということになる。

角田氏
9歳まで日本語で育っていればね。
日本人というのは 血統から見たら 本当に雑種なんだと思いますよ。
人種の坩堝(るつぼ)です。
朝鮮系、中国系、南方系、北方系と 入り混じっている。

目つき、顔型、体つきも違う。

ただ、


日本語をしゃべるということにおいて
みんな 日本人になるんです。


これは 本当に面白いことです。

実行に移した「行動」が一つの「功徳」

ひろさちや氏 『般若心経二六二文字の宇宙』 以下抜粋

「布施」(ふせ)--- 他のために 施(ほどこ)す心

一般的には
席を譲った人は いい人で

譲らなかった人は 悪い人 

といったように判断しがちですが

布施(ふせ)という観点から見ると
話は違ってきます。

布施というのは
「席を譲った」という結果よりも
個々が発する 自発的な心を大切にしています。

「結果が目的ではない」ということは、
仏教用語で 「因果一如」(いんがいちにょ)
と言います。

「何かをすることと、
果を生じることといった因果は 一つになっている」ということです。

たとえば

善行をして いい結果を期待したり、
お祈りをして 何か利益を得たい

と考えるのは 間違っています。

そのことを教えている、こんな禅の話があります。

☆     ☆

インドから 中国に 禅を伝えた 菩提達磨(ぼだいだるま)が
はじめて中国へ来て
仏教を深く信仰していた 梁(りょう)の武帝(ぶてい)と
会見したときの話です。

武帝は 菩提達磨に会うと、
すぐに こんなことを尋ねました。

「わしは 即位(そくい=君主の位につくこと)してから今日まで
多くの寺院を建立(こんりゅう)し、経典(きょうてん)を写(うつ)し
僧尼(そうに)たちに 援助を与えてきた。
これには、いったい どんな功徳(くどく=ご利益)があるか?」

すると

菩提達磨は こう言ったのです。

「無功徳」

--- つまり
「そんなものに 功徳はない」 と言ったのです。

自分は これまで 一生懸命善(よ)いことをしてきた

と思っていた武帝が
これを聞いて すっかり慌(あわ)てたことは 
言うまでもありません。

--- なぜ 菩提達磨は 「無功徳」と言ったのでしょうか?

それは、

梁の武帝が 寺を建立するなど
どんなに 善を重ねても

それが 何か 効果や功徳を期待してのものであれば、

功徳はない という意味
で言ったわけです。

つまり、

寺を建てるにしても

寺を建てたことによって 何か功徳を得るのではなく、

寺を建てようと考え、
それを実行に移した その行動が 一つの功徳になっているのだ

ということを 菩提達磨は 教えたかったのです。

☆     ☆

『般若心経』が教える 日々の生き方

布施 という言葉を 国語辞典で引いてみると
「信者が僧侶に金銭財物を施すこと」と書かれています。

たしかに、こういった解釈は間違いではありませんが、

本来の意味は、

相手は 僧侶にかぎらず

人に 物を施す 仏道修行のことをいいます。

また

施すものは

金銭にかぎりません。

たとえば 『無量寿経』(むりょうじゅきょう)という経文には

和顔愛語」(わがんあいご)という教えが説かれており

にこやかな笑顔で 優しい言葉をかける

という意味です。

これも 布施の一つです。


苦虫をかみつぶしたような顔をしていると

いつの間にか 周囲にいる人に

不愉快を与えてしまいます。

こういったことから、つねに にこやかな笑顔をみせたり

優しい言葉をかけることも、

『般若心経』が教える 日々の生き方なのです。

    

Dale Carnegie "How to stop worrying and start living"
D・カーネギー 『道は開ける』 訳:香山晶氏 以下抜粋

人間とは 生まれつき 感謝を忘れやすくできている
絶えず感謝を期待していることは
みずから進んで 心痛(しんつう)を求めていると言ってもよい

私の両親は 他人を助けるのが 大好きだった。

いつも借金で首が回らないくらい貧乏だったけれども、
両親は 毎年必ず 孤児院あてに 寄付金を贈った。

手紙を別にすれば、
両親は 誰からも 礼を言われたことがないだろう。

しかし、 彼らは 十分に報(むく)われた。

何の返礼も期待せずに 幼い子供たちを助けている
という喜びがあったからである。

私が クリスマスの2、3日前に帰省すると
いつも父は、たくさんの子供を抱(かか)えながら
食べ物や燃料を買う金にも事欠く未亡人に
石炭や 食料を買ってあげた話をした。

このような贈り物をしながら
両親は 計り知れない喜びに
--何らの報酬も期待せずに与える喜びに--浸っていた。

アリストテレスは言っている。
理想人は 他人に好意をほどこすことから 喜びを得る


★     ★

キリストは 1日に10人のライ病患者をいやしたが
キリストに感謝したのは
ただ 1人だけだったことを 思い起こそう。

幸福を見つける唯一の方法は
感謝を期待することではなく
与える喜びのために 与えることである。

感謝の念は 後天的に「育(はぐく)まれた」特性であることを
思い出そう。だから、子供に感謝の念を植えつけるためには
感謝の念を持つように 子供に教えなければならない。

★     ★

たとえば 子供のいる前で 他人の親切にケチをつけたくなったら
すぐに 口を閉じよう。

「スーちゃんが クリスマスに送ってくれたこのフキンだけどねぇ、
あの子が編(あ)んだものだよきっと。1セントもかかってないよ」
などと、決して口をすべらしてはならない。

子供たちは 聞き耳をたてている。

こんなふうに 言えばよいのだ。

「スーちゃんは ずいぶん時間を使っただろうねぇ。
このクリスマスの贈り物を作るのにさ。なかなか気のつく子だよ。
すぐに お礼の手紙を書かなけりゃ。」

こうすれば、子供たちは 
知らず知らずのうちに 
賞賛(しょうさん)と 感謝の習慣を身につけるであろう。

もし、私たちの子供が 恩知らずだとしたら、
だれを非難すべきか?
多分、私たち自身だろう。

私たちが 他人に感謝することを教え込まなかったとしたら、
子供たちに感謝してもらえるはずが ないではないか。

★     ★

いつも 不満顔で 孤独を訴えている人を知っている。
姪たちは 彼女に会いに行くだろうか?
えぇ、時々 義務として。

この女性が真に望んでいるのは 愛情と思いやりである。

けれども、彼女はそれを「感謝」と呼んでいる。
そして彼女は、それを自分のほうから要求する限り
感謝も愛情も 得られないであろう。

彼女はそれを 自分の権利 と考えているからだ。

世間には 彼女と同様、忘恩や孤独や無視に苦しむ女性が
無数にいる。 彼女たちは 愛に飢えている。

しかし、

この世で愛される唯一の方法は

自分から愛を要求しないことであり

返礼を期待せずに 愛情を振りまき始めることなのだ。

    

一緒で幸せ--「布施」の心
縁起に学び、ガタピシを取る 仏様の智慧

池口恵観氏 憎しみや悪意の種を消す 祈り

★    

日本人の力の源 森と水を守るアニミズム

安田喜憲氏 『一神教の闇』 以下抜粋

人間や民族の行動を決定づけるものは、

自然観や世界観であり、

それは数千年に及ぶ風土との関わりの中で醸成されてきたものである。

日本人の力の源は、

縄文時代以来の森を畏敬し森を守る文明を発展させ、

弥生時代以降は里山の資源を循環的に利用し、

美しい水の文明を発展させたアニミズムだった。

美しい「森と水の文明」が「利他の心」を養い、

哀しみを抱きしめて(やられたらやりかえす果てしない

復讐の連鎖を断ち切って)生きる「心の作法」を醸成した。

その原点にあったのは「アニミズム」である。

それは平和の心にも通じている。美しい森と水を守る心が、

「平和と慈悲の心」を醸成し、「アニミズム的応戦」を成し遂げた。

   ★ 

池口恵観氏 『空海と般若心経のこころ』 以下抜粋

呪詛(じゅそ)をすれば、必ず 自分にはねかえりますし

自分にかからなければ、子孫に返ってくるのであります。

悪呪(あくじゅ)も使いようによっては、

善呪(ぜんじゅ)となりうるのでありますが、

それこそは、強い意思によって  これを守っていかねばなりません。

お釈迦様が、あるとき罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びたそうであります。

罵詈雑言=口を極(きわ)めた 悪口

お釈迦様は、静かに その者に申されました。

私は、お前の言葉を いただくつもりはないから、

そっくり お前に返してあげよう」 

これは、言葉を大事にしなさい、「愛語」の教えでありますが、

さらには、自分が投げかけたものは 

必ず自分にかえってくるという教えであろうと思います。


お釈迦さまだから、他人が浴びせた罵詈雑言に心迷うことなく、

そのまま本人に返しましたが、凡人はどうでありましょう。

ついつい受け取ってしまって おまけをつけて 返してしまいます。

”一つの悪意”を受け取ってしまえば、二つにして返したくなります。

迷った気持ちは、かならずや自分のところへ戻ってくるのでありますから、

もう往復で 悪意は倍に膨(ふく)らみます。


これをやりとりしているうちに、悪意は際限なく大きくなってしまって、

結局は自分も相手も さらには人間社会を汚していってしまうのであります。


人間の心に生まれる悪意が凝り固まって、憎悪となり 敵意となって

見えない心の内のはたらきが、やがて戦闘という見える形となって 

身の内も外も滅ぼしてしまうのであります。


私が続けております平和祈願とは、

そうした一人一人の心に ポツンと生まれ、

無意識のうちに やったりとったりしながら

大きくなってしまう憎しみや悪意の種

消してしまおうという祈りであります。


大地に残る憎しみの霊が、その土地で生きる人や ゆかりの人に 

憎しみの種を蒔いてしまうのであります。

霊になってなお、

自分で蒔いた煩悩によって苦しんでいる者たちに成仏してもらうこと、

それが 人々の心から憎悪の炎を消していくことになるのであります。

病気になることも 同じであります。

心身のどこかに巣くってしまった不安や悪意、あるいは恐怖が 

知らず知らずのうちに増殖して、

見えない病巣が見える病となって人間に警告を発します。

「お前はこんなに不安と恐怖に わが身を占領されているのだぞ」と。

見える病巣は、西洋医学 あるいは東洋医学で治療できますが、

見えない病巣を治療するのは、加持(かじ)であります。

加持(かじ)=護念ともいう。仏の大慈悲心が人々に加わり、
人々の信心に仏が感応して お互いに感得し合い道交すること。

私にとって、平和祈願は 地球の見えない病巣に対する治療であり、

病気に苦しむ人々を少しでも楽にしてあげたいと祈ることと同じであります。


「あぁ人生は虚(むな)しい」と思ってしまった時、深呼吸してみましょう。

少なくとも、酸素が体内に入ってくる。

つまり、自分は自分の生命を生かしてくれるものに

包まれて存在しているのだ と知ることができます。

虚しいと思うとき-- それは大方は、

自分の欲しいものが手に入らないと思い込んでいるときであります。

虫の話 動物との関わりの話 クジラ 魚の話

鈴木孝夫氏 日本人はなぜ日本を愛せないのか抜粋

”虫”の話

わずか2、30年前のことですが、
日本の家には虫除けの網戸(あみど)など全く無く、

夏には蚊(か)はおろか、蛾(が)やコガネムシなどいろいろな虫が、
夜昼構わず飛び込んできたものです。

そのため夜寝る時は、どこの家でも蚊帳(かや)といって、
麻や木綿で作った細かい目の、大きな四角い網(あみ)を、
柱や鴨居(かもい)から金具をつけた紐(ひも)で吊り下げ、
その中に布団を敷いて休んだものです。

家で仕事するときや、夕涼(ゆうすず)みで縁先(えんさき)に座る時などは、
いろいろな草や杉の葉などを燃やして、
蚊を追い払う「蚊いぶし」や「蚊遣(や)り」をしていました。

これらの方法は、

蚊そのものを殺してしまうわけではなく、

ただ人と蚊の、

人にとっては好ましくない接触を
回避することだけを目的とするものでした。

それがいつしか日本でも、蚊いぶしの習慣が見られなくなり、

そして蚊遣り線香
いつのまにか蚊取り線香と名が変わってしまったのです。

つまり、蚊を追いやるだけでは満足できずに

毒性の強い煙で蚊を殺してしまうという、

蚊にとっては優しくない駆除(くじょ)の姿勢に変わってしまったのです。

小林一茶(こばやし・いっさ)は、
小鳥や小さな生き物にも、
暖かい目を向けた多くの俳句を作ったことで知られています。 


やれ打つな 蝿(ハエ)が手を擦(す)る 足を擦(す)る

アメリカ的な発想は実に単純明快で、
蚊の発生源になるすべての水溜(た)まりをなくせば
蚊が原因の病気は根絶(こんぜつ)出来るとして、
蚊の発生を徹底的に抑える

短期的に見ると、非常に効率の高いものでした。


しかし現在では、

このような完全に人間中心的な世界観が、
徐々に自然界の微妙なバランスを崩し、

結局は地球規模での環境破壊につながる恐れがあることが、
段々と明らかになってきています。

人間は、大は目に見える寄生虫から小は顕微鏡でしか見えない、
いろいろな細菌微生物
、いや顕微鏡でも見えないぐらいの微細な、
各種のヴィールスとの共生状態でしか、
健康には生きていかれないのです。

別の言い方をすれば、

純粋に人間だけでできている人間、
体の中に人間以外の生物を
すまわせていない純度100%の人間は存在しないということです。

つまり、人間は私たちが考えているほど
他の生物から独立して、自分一人で生きているわけではないのです。

たとえば腸内にすむ寄生虫のサナダムシなどは、
多すぎれば健康に害があるのは当然ですが、
ある程度まではいたほうが、
体の免疫抵抗力を強めるために良い
と考える専門家もいます。

細菌や微生物
ともなれば、
人体の正常な働きや機能を維持するためには
不可欠なものであるのですから、
健康な人間はみな他の生物と共存していると言えるのです。

ペニシリンなどの抗生物質は、
病原菌を殺すという点では大変に効果があるのですが、

それと同時に
人体になくてはならない体内の有益な細菌まで皆殺しにするため、
いろいろと副作用が問題になるのです。

最近ますます清潔志向の強まっている先進国、

特にアメリカやそれに追随する傾向の著しい日本では、

薬品を次から次へと開発して儲けようとする商業主義が顕著です。

そのために必要な微生物まで巻き添えにされて、

その結果人体の抵抗力が弱まり

一昔前だったら考えられないような皮膚病や、

アレルギーと称せられる、
異物に対する過敏な反応
で悩む人が増えているのです。

私たち人間とは、
自分たちがそれを意識していようといまいと、
自分以外の無数の生物や無生物
と、
切っても切れない密接な共存共生の網目の中で生きていることになります。

人間の体内に住む数え切れないほかの生物のおかげで

営み(動植物を食べ、空気を吸って水をのむ。
これらのものは体内でさまざまに形を変えて体の一部になり、
やがて再び別の形をして外部に出て行く)が行われているのです。


そして私たちが死ねば、
体は色々な物質に分解して、
それがやがては
他のさまざまな生物の栄養源として吸収されるのです。

”動物との関わり” の話

明治までの日本では、

仏教的な世界観に基づく動物観が、
一般の人々の間では支配的でしたから、

人間と動物の間は
、輪廻転生
(りんねてんしょう/りんねてんせい=生死を重ねて生まれ変わること)
の仕組みで、完全には断絶していないと受け止められていました。

日本でも、

魚や野山の鳥やけだものといった生き物を取って食べることは、

それこそ悠久(ゆうきゅう)の昔から行われて来ました。

しかし、6世紀の前半に大陸から渡来した仏教が広まるにつれて、
四足の動物を食べることはご法度(はっと=禁令)となり、
やがてそれは忌(い)み嫌われるタブーにまでなったのです。
この肉食の禁忌(きんき=タブー)はその後1300年も続き
それが解かれるのはようやく明治になってからのことです。

現代のような猟銃で雉(きじ)や鳩(はと)を撃ったり、
鹿(しか)や猪(いのしし)を殺したりする狩猟(しゅりょう)が、

それを生業(なりわい=世わたりの仕事)としてではなく、
娯楽つまりスポーツとして広く行われるようになったのは、


やはり日本が明治以後、西欧文化の影響を受けたためなのです。

最近アメリカから伝わってきた
キャッチ・アンド・リリース式の釣りとなると、
釣った魚を再び水に戻すのですから、
これはただ魚を傷つけ苦しませることだけが、
釣る人の喜びとなっているわけでしょう。

これはまさに「動物虐待」を楽しんでいることになるわけです。

命ある生き物をいじめて殺すことを娯楽とする文化は、
古代ローマのコロッセウムでのサーカスが有名ですが、
そのローマに400年も属領(ぞくりょう)とされたイギリスの文化には
その影響が強く残り
(やっと禁止された悪名高き狐狩りなど)、
それが更にイギリス人によってアメリカに伝えられたと考えれば、
なるほどと納得がいくと思います。

私たち日本人から見れば
理解しがたい生き物に対する態度や扱いは

「人間にだけしか魂がない」というアリストテレス的な生物観と、
それを引き継いだヨーロッパのキリスト教的世界観に
今でもしっかりと残っている

というのが私の考えです。

クジラ 魚の話

欧米諸国が中心となって非難している日本の捕鯨なども、
鯨から欲しい油だけを採ってあとはすべて平気で海に捨てていた
西欧の伝統的な捕鯨
とは全く違い、

肉はもちろん、鯨の全てを余すところなく役立てたのです。

しかもその上死んだ鯨の霊をなぐさめるため、
塚を立てて供養までするという、

古代アニミズム的な側面を保持した、
人間が他の生物との共存共栄をはかる理想的なものだったのです。

先日私は四国の高知市を訪れましたが、
市内の天満宮の境内で、

魚と包丁、そしてお箸のための塚が、
三つ揃って建てられているのを見ました。

高知漁業で生計を立てている人の多いところですから、
人間のために死んでくれた魚の霊を慰め、
魚をさばくのに役立った包丁の苦労をねぎらい
魚を食べるのに働いてくれたお箸に感謝するという、
これらの塚を建てた人々の気持ちは痛いほどよく分かりました。

これこそ、食べ物に対して日本人の誰もが、少し前まで持っていた
ありがたい」「もったいない」「おかげさまでといった、

自分たちが万物の互いのつながり、

支えあいの中で生きている、

生かされているという自覚の現われにほかなりません。

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宮沢賢治からのメッセージ--動物の”魂”に目を向けて

アニミズムとテクノロジーが共存する魅力にドキッ!