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唱歌 『春の小川』3番--復活願い

なっとく童謡・唱歌 (池田小百合さん)以下抜粋

 
春の小川 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一
高野辰之氏 
1876年(明治9年)生まれ
1911年(明治44年) 高野氏35
の頃

幼年時代 長野県で過ごし
明治42年頃から 東京都渋谷区代々木に住む


「春の小川」は、
原宿から代々木公園、渋谷へ広がる野原
を流れる

小川の岸を歩きながら作った歌 と伝えられている。


1.
春の小川は さらさら 流(なが)る
岸のすみれや れんげの花に、

にほひ めでたく 色うつくしく
咲けよ咲けよと ささやく如(ごと)く


2.
春の小川は さらさら 流る
蝦(えび)や めだかや 小鮒(こぶな)の群(むれ)に、

今日も1日 ひなたに出(い)でて 遊べ遊べと ささやく如(ごと)く

3.
春の小川は さらさら流(なが)る 歌の上手(じょうず)よ、
いとしき子ども、
聲(こえ)をそろへて 
小川の歌を
 うたへうたへと ささやく如(ごと)く

3番は、高野辰之氏が 養女に迎え入れた
娘・弘子さんとの
楽しい春の散歩のひとときが うかがえる。

1942年(昭和17年) 歌詞が口語体に改められた際に 
子どもへの愛情あふれた3番が 省(はぶ)かれ、

【春の風景の歌】になる。


『戦時下にあった当時の文部省としては
親子の楽しいひとときが 不適当
 と判断したのでしょう...


しだいに 
「春の小川」に 3番があったことを知る人は
少なくなっています』


【作者名の明記】
戦前の文部省唱歌の多くは「不明」と記されてきた。
文部省は1947年(昭和22年)
マッカーサー元帥の指令により、作詞者と作曲者の名前を明記
音楽著作権協会は、
高野の知人などの証言をもとに高野の作詞と認め
同協会の著作権名簿に登録

作曲者名が岡野貞一になっているのは、伝聞により
資料の提示なしに岡野貞一個人の作曲説を発表
著作権設定の道を作った。

    

文語体 そのままに 歌詞を味わうと

小川の さらさら流れていく音が聞こえてくる
春の小川は さらさら 流(なが)る

匂(にお)いも 香(かお)ってくる
にほひ めでたく 色うつくしく
(めでたし=素晴らしい 美しい りっぱだ)

3番の歌詞を読むと
子どもと一緒の温かい情景が 目に浮かび
親の子どもに注ぐ【いとしさ】が伝わってくる
(いとしい=愛しい=かわいい いとおしい こいしい)

春の小川は さらさら流(なが)る 歌の上手(じょうず)よ、
いとしき子ども、
聲(こえ)をそろへて 
小川の歌を
 うたへうたへと ささやく如(ごと)く

月夜の海に 浮かべれば 忘れた唄を思い出す
日本語 で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係
虫の 声、花のささやきを聞いて
企業禅-- 滅私奉公--洗脳する側
日本社会 -- 家庭-- 父親の不在 断想

支え手(親2+祖父母 4+etc)の1人に恵まれて

    

鈴木孝夫氏 『私は、こう考えるのだが』 以下抜粋

人間は ある社会で生まれ育つ際に、
ほとんど無意識に
親や 周りの大人が 行なっている社会でのあいさつの仕方を学習して
自分も同じことをする


生まれた後で だんだんと 社会の中で身についていく
生きてゆくために必 要な 知恵や知識の総体が 【文化】です。


親以外にも 祖父母 兄弟 周りの色々な人との 日常的な接触で、
うまく生きていくための 実践的な知恵を増やすことができました。

--親から子へ世代から世代へと受け継がれる取り決め【文化の継承】--

--動物でも、社会共同生活を営む種類には、
人間の場合と 極めてよく似た 文化行 動が見られる--


生まれてすぐ親から離され
動物園などで 人工的に育てられたサルは、
体は立派でも サルの社会で生きてゆくために必要な
幼児教育を 親から受けていないため、
たとえ 元の自然環境にも どしても うまく生きて行けません。

--森 の中で 生きてゆく すべを知らず、
--仲間と折り合いよく暮らすための 
--文化的対応能力も 身に付いていないからです。

「文化的しつけ」の欠如


一部の子供は 親が子育てに 昔ほど熱意がないため、
家では テレビっ子 といわれるような 
放 置状態におかれ

一日の大部分を  
保育や幼稚で過ごす子供も 
少なくありません。

要するに

動物園という 人工的な 条件のもとで育てられた子ザルが

本来の自然な環境に適応できないのと まったく同様に

今 

日本の多くの子供は 
経済的な理由や 様々な社会変化の結果
--家族との密接な接触が減少し
--「文化的しつけ」をいたまま
--社会不適応の状態で 学校に入ってしまう


子供には 
錨(いかり)をおろせる【心の結びつき】の存在が不可欠

集団保育では、1人の子供と 特定の大人との間に
特別な関係が うまれない
-- 【心の母港】を持たず
-- 情緒不安定 

--人間の子供は 生まれて から3歳くらいまでの間に
自分の周りに いつもいる ある特定の1 人の大人
自分にとって 特別の人間だ と思い込むようにできている--

肝心なことは

誰でもよいが いつも特定の人が 幼児のそばに一定期間いることです。

それが母親ではなく 父親であってもよい し、

赤の他人であっても構いません。

子 供は 成長の過程で 
何かがあるたびに逃げ込める【母港】 があれば

そこで癒されて 元気を取り戻して、 
再 び 社会という波の荒い海に 出て行けます。


両親とも家にいないことが多い

-- 子供を取り巻く 伝統的な私的人間関係が消滅し
--公的な施設で過ごす時間が増え
--機械的環境(TV、PC、自動販売機、携帯)の占 める部分が増大

この現象】は
--限りない経済成長、いっそうの便利さ 効率の良さの追求こそ
人間に さらなる 幸福をもたらす
--
という【考え】が 生み出している

最近 アメリカに2、3年いても、 
一向に英語ができるようにならない 若者が増えた

と 私の知り合いから聞いて
理由を尋ねたところ

アメリカでは 日本以上に
社会の機械化・自動化 が進んだことが考えられるという。

人 と言葉を交わさずに暮らせるから 英語力が伸びないのだ、 と。

肝心なことは

知識 としての言語教育ではなく、

ほとんど無意識に学習される 【文化】としての日常の言葉、

集団で生きていくための  知恵と価値観に裏付けられた

暗黙のルールと しての言葉

虫の声、花のささやきを聞いて

日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係 の続き

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

林氏

--自然の発する音が すべて 言語音としてとらえられる
--それによって神経や感性をも刺激するということだから
--日本人の 鋭敏な感覚や 情緒を育てたことになる。

虫の音がするところで人と会話するのは
2人の人間と同時に会話しているのと 同じような状態になる。


文字どおり、 花のささやきを 聞き取ることができる。

日本人の美意識、「もののあはれ」は、
ここから生まれた というふうに思うんです。

角田氏

言語(ロゴス)と 情緒(パドス)と 自然が 混然一体となった文化の特徴と
日本人の脳の機能は、見事に一致する。

私も、脳の働きのレベルで 
文化論の裏づけがとれたように思っているんです。


林氏
外国人にとっては 左脳は言語(ロゴス)、右脳は情緒(パドス)ですが、
われらが日本人は そんな”器用”使い分けができない。

言語も情緒も 一緒くたに 左に入ってしまう(笑)

ガイジンなら右に行く虫の音が 
日本人には左に入って来るので
それに意味を持たさざるをえず、
一定のカテゴリーに当てはめることになった。

これが、日本語に擬声語、擬態語を
極端なほど多様に、豊富に生み出させた原因ではないか。

そして、これらのことが、外国人と異なる自然認知の精神構造を育て、

自然を人間と対立するものではなく、

一体不離のものとする感覚に導いたのではないか と思うのです。

こうしたゴチャゴチャなところが、

八百万神(やおよろずのかみ)の源であり、

日本人の「心」を 形づくったのではないか。

言語と情緒が ごちゃまぜになっているもの、

それが ハートでもなく、スピリットでもない、

日本人独特の「心」ではないかと。

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角田氏
なるほど。
しかし、そういう日本人の特異性 というものは、

外国人から見たら、決して 愉快ではない というのが、
実のところ、私の正直な感触です。

たとえば アメリカの学問も、随分と政治に影響されているように見えます。

はじめは 少数民族を理解すべきだ
という相対論を掲(かか)げる人たちが頑張っていたものが、

今では 一変して、
ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。

違いは許さない という非寛容が 感じられる。


たしかに、外国人、白人の普遍主義は、例外的な存在に対して
劣等 というレッテルを貼って 排除してきた。

角田氏
逆に、その特異性に対して、
それは 日本人の優越感の現われで 人種差別だという反発もある。

特に 日本経済が世界を席巻していた頃は、

私のところへやって来た欧米の 多くのマスコミが
「角田の本はけしからん」という そんな感じでした。

私は別に 日本人が優れていると言ったわけではない。
違うというのは 上下の意識だと(笑)。
優性だと言っているのと同じだと 決め付けてくるんですね。

林氏
私は、角田さんの学説がもたらす日本人の未来について
いろいろな希望を持っているんですが、
同時に 危惧も 抱いています。

その一つが、こうした 外国人の誤解というか、
排他性なり嫉妬からくる反発ですけれど、

同時に、日本人にも これを”悪用”する人たちが出てくる可能性が
あると思うんです。特異性を 単純に優位性と
置き換えてしまうことは 危険です。

日本人が「角田学説」を利用して
極端な 民族主義、極右的な原理主義的な考えを周囲に向かって
それこそ 上下の意識で 展開するようなことがあってはならない。

しかし、やっぱり同時に、「角田学説」が”武器”であることも確かなんです。

なぜなら 外国人にも通じる科学の領域の話だからです。

直感でものを理解してくれない相手に対しても、
説明、説得が可能である というのは、
日本人が はじめて 手にすることができた武器です。

武器 --というのは言葉が適切ではない
コミュニケーション・ツール とでも言い換えたほうが
良いのかも知れないけれど--
とにかく 唯一のものだ と私は思っている。

そして、われわれはむしろ その特異性を謙虚に自覚した上で、

他者との距離や 差異を きちんと認識することが大切なんだと思うんです。

われわれの持っている価値観が

世界人類の未来に なにがしか 役に立つことがあればいい。

それを 世界に広めるとか、教える と言うと
これまた語弊(ごへい)があるのでしょうが

日本人が 日本人であることを
深く自覚しているかぎり、
そして それを 喪失しないかぎり、

いずれ そうなってくるような気がするんです。

日本人が戦闘的になったら、

彼らの文明と 変わりない ということになってしまう。

その意味では、日本人は あるがままに、
「保守」の意識でいることが第一だと思うんです。

角田氏
日本人のアイデンティティが
現代人において 急速に失われてきたように見えるのは 確かですね。

脳の面では 変わらないんだけれども。

だから 林さんのおっしゃるように
優位性 と単純にとらえるのは問題だけれど、
特異性への 前向きな自覚 
というのは 不可欠だと私も思います。

林氏
若い人にもわかりやすいのが、擬声語、擬態語の多様さですね。

たとえ雨が降る音でも、

ザアザア、シトシト、ポトポト、パラパラ

と、みんな情景が違う。

蝉の鳴く ミンミン、カナカナ

擬態語としての ニョキニョキ、グニャグニャだとか、

こういう表現は、本当に 日本語だけのものですよ。

私は 日本とオーストラリアの両方で
役者志望の青年たちに 演技の指導をしたことがるんですが、

そこで たとえば ヨタヨタ歩いてくれ とか
ヨロヨロ歩いてくれ とかいう注文をすると、

日本人は 上手い下手の違いはあっても

一応区別して それなりの演技をするんです。


ところが、英語には こういう擬態語の表現が無いから、

「タイアード(疲れた感じ)でウォークしろ(歩いてみて)」
みたいな 表現になる。

そうすると、演技にも それが反映される。

言葉がない ということは

要するに、 概念がない ということで 動き(アクション)もない。

だから、日本人から見たら、たとえ名優ダスティ・ホフマンでも、
演技のなかに そういう細かい擬態語、擬声語の演技は
あまり 感じられない。

やっぱり 違うんです。

特異性と どう向き合っていくか -- 日本人の未来

林氏
われわれ日本人が 明治以来、本当に苦労して英語やフランス語、
ドイツ語を学んできたのと 同じような努力を
彼らが 日本語に向けるとは 考えられません。

日本文明の価値 というのは、
彼らの言葉、論理 にあてはめて 容易に説明できるものではない。

たとえば 「ご神木(しんぼく)」という感覚、

なにゆえ その樹木が尊いか ということは

科学的に証明できないけれども、

不可知であっても 尊いと思う日本人の感覚は、

「人間は人間、自然は自然」と 
はっきり区別して認識している彼らからは 遠い世界です。

ここで 虫も 川も、人間も一体であるというのは、
言葉を鍵に考えると 得心(とくしん)がいくんです。

ちょっと極端に言えば、

みんな同じ言葉をしゃべっている。

母音 という母親の膝の上で

万物は みな同胞だ という感覚を

そのまま受け入れているのが 日本人ではないですか。

したがって われわれは 情感を基本として
価値判断をする民族であって、

ロジックだけでは説明しきれないものがある
という自覚が
、--国際化であれグローバリゼーションであれ
言葉はなんでもいいんですが-- これからの日本人には
不可欠である と思うんです。

でもそれは 他者とのコミュニケーションを考えると、
深い深い絶望からのスタートを意味する。

角田氏
日本人の脳が違う というのは、結局 大脳皮質以上に
無意識のレベルでの話 なんですね。

今 日本人を考える時

アジア人であると同時に

一方で 西欧化した日本人という像がある。

実は もう一つあって、

縄文時代以来、日本語を守って

山の中で 古い神様を守ってきたような

それこそ、説明不可能な日本人の原像がある。

私は、これこそが 日本人の本質ではないか

と考えているんです。

無意識に持っている 古神道の世界観、

それを 日本人の脳は
メカニズム(装置、仕組み)として 持っている
と 言い換えてもよい。

林さんのおっしゃるように、

この特異性と
どう向き合っていくか

ということが、

日本人の未来を左右する

と私も思います。
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角田忠信氏
1926年、東京生まれ。
東京医科歯科大学名誉教授
聴覚を通して 脳の機能解明を行なう「角田法」を開発

林 秀彦氏
1934年 東京生まれ。学習院高等科
ザール大(独)、モンプリエ大(仏)に学ぶ。
脚本家「7人の刑事」他 作品多数

    

砂上の楼閣から脱出する

吉川元忠氏

グローバリズムというのは、

基本的にアメリカの都合から出てきたものです。

というのは、アメリカは赤字で、自分の国だけでは食えないからです。

グローバルにいろいろなところに
手をのばさなければやっていけないわけです。

企業価値とは、
その企業の株式の時価総額であるというのが、
グローバリズムの考え方です。

これは企業を売り買いするのに便利なように、
企業の値段をはっきりさせようという
アングロ・サクソン的な発想であり、
要はM&Aをやりやすくするための、
アメリカの都合に基づいているのです。

時価総額をイコール企業価値だといって絶対視する風潮に、
私は疑問を持たないではいられません。

会計制度の問題でも、
時価会計とか減損会計というアングロ・サクソンのルールを、
日本は不況の最中に導入しました。

これも結局は、
M&Aのために企業価値をはっきりさせろということですから、
本末転倒というしかありません。

これ以上、アメリカの都合に振り回されないためには、
アングロ・サクソンの価値観を
無批判に受容することをやめなければなりません。

たとえば企業社会で本当に大事なものは何か、
何が本当の価値なのかということを、
日本人自身が考えていかなければならないと思うのです。

迂遠(うえん)な話をするなら、

結局は思想の問題であって、
アメリカに対抗できる思想体系を
日本は持たなければならないと思います。

哲学や思想、そして『万葉集』や『源氏物語』といった
文化から民族の歴史までをも含めた巨大な思想体系、

あるいは経済思想の体系がなければ、だめだと思うのです。

もう少し一般的なことを言うと、
世界は大変な変わり目を迎えているという認識を持った上で、
戦略を立てる必要があります。

このままアメリカモデルを受け入れ続けて、
どんどんグローバル化を進めていった場合、
日本はアメリカの亜流のような国になるでしょう。

それでいて、バックス・アメリカーナ自体が相当問題を抱えていて、
とくに通貨の問題は深刻です。
日中というと対立関係だけが目立つけれど、
共通の利益を模索しようという考え方まで排除すべきではないと思います。

国際政治学者のジョセフ・ナイは、
自国の価値観を他国にとって望ましいと感じさせ、
協調を生み出す力を「ソフト・パワー」と呼んでいます。

日本のソフト・パワーは何かというと、
それは半導体やデジタル技術などではなく、
先ほど言ったように、最後は思想だと思うのです。

グローバリズム一辺倒の今、
それに対する対抗軸となるような思想を構築しようとしている人が、
世界的に見ればいるようですが、これは大変難しい。

でも、誰かがやらなければ、
アメリカ流のグローバリズムに世界は呑み込まれてしまいます。

日本がアジアに訴えるにしても、
最後はそういう思想が問われることになると思うのです。

    

土地神の声に 耳を澄ます

続き...月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す

日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

日本語 ポリネシア語で育った人の脳は、
母音、子音にかかわらず、音は左脳へ送られる。
虫の音、風の音も 「言語音」と同じように処理されている。

日本語 ポリネシア語以外で育った人にとって
母音は「非言語音」--「雑音」 右脳で聴いている。

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角田忠信氏

日本人が彼らの言葉を翻訳し、互いにコミュニケーションが図れたように思っても、実は 本質の部分では なかなかそうはなっていない。
彼ら--ノン・ジャパニーズですが--から、【日本人の異質性、特異性】が強調されるのはなぜか。そして、われわれも どこか彼らから疎外されているように感ずるのは なぜか。

それはやっぱり われわれが 文化として根強く持っているもの、
下界を認知する枠組み が、彼らと大きく異なっているからなんです。

林氏
その枠組み とは、【日本語】によって形づくられたものですね。

角田氏
そうです。ただ 日本語に行き着くまでには いくつかの過程がありました。

学会に招かれて講演したことがあります。

ある夜、大きな庭園でパーティが開かれたんですけれど、
もう 草ぼうぼうで、コオロギかなにか 虫がしきりに鳴いている。

それが ザアザア雨が降っているような音なんですね。

私には それが虫の音だということがわかる。

ところが、周囲の人間は 誰も その音がわからないんです。

「聴こえない」と言うんですよ。全然 聴こえないと。
ロシア人も キューバ人も みんなです。

音に気付かない。

「先生はきっとお疲れなんです。早くホテルの部屋に帰って
休まれたようがいい」と言うんです。
帰り道に、ひときわ激しく鳴いている草むらで
「ここでたくさんの虫が鳴いているのがわからない?」
と もう一度たずねて、草むらに首を突っ込んで
聴いてもらったんだけれど、「聴こえない」と言うんですね。

ところが、これを学問的にやると、つまりその虫の音を録音して
レシーバーを通して聴かせたら、これは 誰でもわかるんです。

音をモノとしてテープにして聴かせたらわかるけれど、
自然に あるがままの状態だと わからない。

たとえば、同じオーケストラの演奏を聴いても、
訓練を受けた人間と、そうでない人間では
受け止め方、感動に 差が出るでしょう。
そういう訓練なり 能動的な意志を全部取っ払った自然の状態でどうか
というのが 問題なんです。

林氏
たしかに、日本人は 川のせせらぎの音 とか、風の音とか、
虫の音であるとか、そういうものを雑音としては とらえていません。

なにか 意味のあるものととらえているからこそ、
俳句にしろ、和歌にしろ、音の情景描写 というのが豊かなのだと思います。

ここで虫が鳴いていると言っても、見なければわからない人間と、
見なくても その音だけで虫の存在がわかる人間の二種類がいる。

ただ、彼らの場合、”虫の音”とは聴こえていなくても”雑音”としてなら
聴こえているんですか?

角田氏
いや、音そのものが聴こえない場合と、音に気づいても
虫とは気づかないことがあるようです。
ただ、いったんそれを虫の音だと認識したら、以後はわかるんだと思います。
能動的に学習したら わかる。

秘密は 日本語の「音」に

林氏
ホント、不思議ですね。
私は日本を逃げ出して

オーストラリアに住み着いてから14年になりますけれど、
アングロサクソンと日本人は なぜこうも
ことごとく違うのか と嘆息するような毎日です。
それが角田さんの『日本人の脳』を読んだときは、
目から鱗が落ちるというのを実感しました。

私は、白人の文明の基底は キリスト教文明であり、
根本的には嫉妬から発生した文明だと思います。

今のアメリカを見てもわかるように
”富への欲望”と言い換えてもいい。

厳しすぎる環境が、彼らに力を与え、
彼らは 個人としても 民族としても、富の独占を指向せざるをえなかった。

言ってみれば、生き残りの原理です。

この 飽くなき欲望追求が 不可避である以上、
つまり 善 として肯定しなければならないのなら、
宗教は その原動力を何らかの形で擁護し、
行き過ぎを抑制する機能を 持たざるをえない。

今、西欧では それが抑制できなくなっている。

欲望と、嫉妬と、科学が
「神を死なせた」
と言っていいのではないかと思うんです。

私たちにとって厄介なのは、
 
そういう彼らの 嫉妬なり 欲望なりは
日本語で表現できるものではなく、完全に非寛容であり、

反対者を 駆逐(くちく)せずにはおかないものであることです。

しかも 彼らは言語(ロゴス)ですべて解決できると思っている。

彼らにとって 言語は 武器です。

日本人にとって 言語が武器だったことはない。

この決定的な差異を認識しないかぎり

双方にとって 大きな不幸をもたらすと思うんですね。

角田氏
ただ、その脳の差異 は、人種とかDNAレベルのことではありません。

あくまでも 日本語 という言語によるんです。

肌の色、瞳の色の違いが 
脳の機能の違いにつながっているわけではない。

日本語の「音」のなかに 秘密がある。

林氏
日本人の脳の特殊性 というのは、日本語の構造というよりは
音の関係が 深いんですね。

角田氏
そうです。最終的には 母音に大きな意味があると思います。

実験で明らかになったことは、
母音を聴くのは 日本人では左脳で
西欧人では 右脳だということでした。

西欧人の場合は、母音だけだと雑音と同じように右脳で聴いている。

日本人は 母音を 言葉として左脳で聴いている。

母音を左脳で聴く人というのは
”日本語を主に使う人”だということがわかってきた。

その後の調査で
ポリネシア語を話す人たちも
日本人とまったく同じで、
母音を 左脳で聴いている ということが判明した。

そしてこれは 遺伝はまったく関係ない。

たとえば、日本語で育った外国人をテストすると、
日本人と同じように 母音を左脳で聴いています。

逆に 帰国子女の調査をしてみると、
生まれてから9歳くらいまでに使っていた言葉によって、
それが違ってくる ということがわかった。

外国で生まれ育って、5歳くらいで英語べらべらのような子供でも、
6歳以下で 日本に帰って来て、

日本語の言語空間のなかで教育を受けると、
ちゃんと日本語のパターンになるんですね。

要するに、6歳から9歳くらいまでのあいだを 日本語で過ごしたら、
韓国人だろうが、アメリカ人だろうが、それこそ何人であっても、
みんな日本語のパターンになってしまう。

林氏
そう考えると、たとえば外国人の子供でも、
9歳くらいまで日本語で育てられていれば、
そのあと アメリカで暮らすようになっても
俳句や和歌のセンス、その基底部分は持ったままでいられる。

逆に その時期を日本語ではない言語で過ごした人は、
いくら努力しても それがない ということになる。

角田氏
9歳まで日本語で育っていればね。
日本人というのは 血統から見たら 本当に雑種なんだと思いますよ。
人種の坩堝(るつぼ)です。
朝鮮系、中国系、南方系、北方系と 入り混じっている。

目つき、顔型、体つきも違う。

ただ、


日本語をしゃべるということにおいて
みんな 日本人になるんです。


これは 本当に面白いことです。