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学校生活で作られた”自分の仮面”を はずす

5年生が、今の大学レベルだった頃

本人に学ぶ気があれば、
実は、読み書き・計算は100時間もあれば教えられる。

その秘訣は、誰かから質問が出るまで待つこと、

生徒の気分が乗っているうちに、ドンドン進めることだ。

読み書き・計算の能力を独学で身に付けた人も多く、

本当はそれほど難しいことではない。

1850年に使われていた5年生の算数や作文の教科書を見ると、
その内容が現在の大学レベルに相当することがわかる。

すべては ここから始まった

ロックフェラー総合教育委員会の
使命記述書(マニュフェスト)1905年 抜粋

『我々の夢は、人々が我々の作る型に おとなしく身を委ねることである。
我々の使命はごく簡単である。
子供たちを組織化し、彼らの親が不完全な方法でやっていることを、
彼らには完全な方法でやるように教えることだ。 』

最初に学校制度の構想をまとめたのは、
教育改革者のホーレス・マン、シカゴ大のハーパーとシアーズ、
コロンビア教育大のソーンダイクといった人々で、
その目的は”大衆を厳しく管理すること”だった。

つまり、学校は 公式どおりに行動する人間、
コントロール可能な人間を生み出すために作られたのである。

この役割は見事に果たされ、社会ではますます階級化が進んでいる。

そこでは、「支配階級だけに自立と個性が許され、

それ以外の大衆は 問題にされない。

北戦争を境に、中央統制が強まったアメリカでは、
人々の生活、服装、食べ物、あるいは東西に走る幹線道路など、
あらゆる面に、支配の影響が表われた。

おそらく、麻薬や自殺、離婚、暴力、虐待といった問題が蔓延しているのも、
社会の閉鎖的な階級意識とともに、私たちの生活が非人間的になり、

個人や家族、地域社会の重要性が
顧(かえり)みられなくなったからではないか。

これは、中央統制がもたらした衰退である。

当然、義務教育はますますエスカレートし、
子供たちを地域社会から遠ざける。

子供の教育を、”専門家” に委(ゆだ)ねることで、地域社会を崩壊させ、
子供を成熟した人間にさせないようにしているのだ。

アリストテレスによれば、
人は、地域社会で積極的な役割を果たさないかぎり、
健全な人間には なれない

彼の考えが正しかったことは、
学校や老人ホームを見れば、明らかである。

子供たちは、大人の世界や将来に無関心で、

ゲームや暴力といった気晴らし以外、ほとんどすべてに冷めている。

ゆがんだ学校教育は、望ましい人格形成を妨げている。

実際、学校や教師が生き延びているのは、
子供たちの、こうした”未熟さ”のおかげである。

その証拠に、批判的思考の手段 

《論理や自由な発想》を教えようとする勇敢な学校は、
どこも長続きせず、やがて破綻してしまう。

皮肉なのは、学校教育に必要な”意識改革”を行なうと、
新しい学校は今よりずっと金のかからないものになるため、
利権者が改革に消極的だということだ。

彼らにとって、”教育はビジネス”であり、


たとえ子供の育成に役立つとしても、
そのために業務を縮小したり、
商品を多様化させたりして、利益を削ることは出来ない。

90年間にわたる着実な繁栄(?!)

1980年代から1990年代にかけての好況期、購買力が増したのは 
実は人口の20%で、残りの80%は逆に13%減少した。

実際、そこにインフレの要因が加わると、

1995年の共働き夫婦の購買力は、
1905年の単身男性労働者のそれを 8%上回るだけだった。

繁栄に対する実態は、両親を家庭から遠ざけ、
子供たちを託児所や商業的娯楽施設といった管理体制に放り込ませた。

子供たちをクラス分けし、
互いに対立させることによって、階級構造を確立した。

そして、富と権力を一部の人間に 危険なほど集中させた。

10代の自殺率は世界最高で、
自殺する子供の大半は、貧困家庭ではなく、裕福な家庭の子供である。

マンハッタンでは、新婚夫婦の70%が、5年足らずで離婚する。

麻薬取り引きは、アメリカを中心に行なわれ

私たちアメリカ人が、麻薬を買うのをやめたら、
このビジネスは成り立たない)、学校はその重要な販売ルートになっている。

この国は、明らかに狂っているのだ。

ちょっとブレイク
非常に優秀で真面目な人々が
安易にクスリに頼っている日本の現状...  

新型抗うつ剤は覚せい剤類似物資である。
したがって自殺者は倍増する。
新世代の抗うつ剤を飲む前に ”ネットで調べた?”

Japan as a client state..
★     ★     ★

学校の危機は、地域社会の危機と関係がある。
子供と高齢者は、隔離され、世間から完全に無視されている。

もはや、彼らに話しかける人はなく、
日常生活で、両者が触れ合うこともない。

そんな地域社会では、未来も過去もなく、ただ 現在が続くばかりだ。

私たちは ネット社会に生きており、そこでは誰もが1人ぼっちだ。

学校という分類装置を使って、ピラミッド型社会を作り、
その最下層にいるのが、物乞いしたり、公園で寝たりする人々である。

30年の教師生活をとおして、私は興味深い現象に気付いた。


学校は、世の中の創造的活動から取り残されている。

もはや科学者が科学のクラスから生まれるとか、
政治家が公民のクラスから生まれるとか、
詩人が国語のクラスから育つと思っている人はいない。

実際、学校は 命令に従うことしか教えていない。


20世紀が進むにつれて、とりわけ第二次世界大戦後、
学校は企業と政府のための行動訓練センター、実験施設になった。

この計画の当初のモデルは
プロイセン(ドイツ)だったが、それを覚えている人はほとんどいない。

学校は懲役そのもので、
繰り返される「標準」テストのプレッシャーが子供たちを苦しめた。

しかし、そのために彼らがどんなに勉強しても、
結果は現実を測る尺度にはならなかった。

ブッシュetc..のように、たとえ標準学力テストのスコアが平凡でも、
大統領、議員、知事になれるなら、
こうしたテストは一体何を測っているのだろう...

依存的で無目的な生き方に

弱者を守る地域社会は衰退し、孤独なネット社会だけが生き残る。

従うことに慣れた人々は、自分の頭で考えることを知らない。

要するに、他人に対しても、自分に対しても、役に立たないのである。

こうした悲劇の原因は、
30年前にポール・グッドマンが言ったように、馬鹿げた学校制度にある。

子供たちの生活は、二つの習慣に支配されている。

それは「TV」と「学校」である。

今の子供たちには、一人前の大人になるための知恵を学ぶ時間が無い。

裕福な家の子供は、TVを見る時間が少ないが、
その代わりに彼らは  意に沿わない習い事に追われている。

彼らは自分の時間の使い方がわからず、

自己の存在の意味も、目的も、その喜びもわからない。

この 依存的で無目的な生き方は、国民的な病気である。

それは、「学校」「TV」「習い事」と深い関係があるはずだ。

深刻な社会問題-麻薬や暴力、愚かな競争、性の乱れ、

ギャンブル、アルコール、そして金品の執着-----もまた、
実は ”依存的な人格”による病気であり、学校教育の産物にほかならない。

教室という水槽の中で、教師に気に入られようとする彼らは、

次第に臆病になり、慢性的に退屈になり、

やがて 生きる目的を失ってしまう。

子供をもっともダメにするのは、マンネリである。

学校教育は、12年間の禁固刑のようなもので、
そこで教えられるのは悪い習慣だけだ。

最優秀教師賞までもらった私にとって、
これは紛(まぎ)れも無い事実である。

(...That's why many people just don't seem to care enough about what's going on in the world. )

学校で教えない”大切なこと”

地域社会は、家族や友人が集まってできたものであり、
そこでは他者との深い絆が重んじられる。

私たちは他人から関心を向けられてはじめて、自分に価値を見出せる。

裕福な人も貧しい人も、
誰もが自分をかけがえのない存在と感じることが出来る。

一方、制度の中では、誰もが他人に関心を持つことなく暮らし、

知らない人間に対して常に脅威を感じている。

人々は皆、自分の殻に閉じこもり、目立つことを嫌う。

学校という制度の社会も これと同じだ。

見せかけの社会の見せかけの絆は、強固のように見えて壊れやすく、
永遠のように見えて はかなく、頼れるように見えて 実は役に立たない。

家庭や地域社会が再生されれば、
子供は かつてそうだったように、自分の力で学ぶようになる

今の彼らには、金銭以外に努力する目的が無いが、
金はけっして根本的な動機にはならない。

大切なのは、彼らが自分や自分の家族を信じ、
自発性や忍耐、勇気や自信、品位や愛情といったものを学び、
他者への奉仕を学ぶことである。

今の子供たちが病んでいるのは、
こうしたことを学ぶ機会を奪われているからだ。

30年前なら、それらはまだ放課後に学ぶことが出来た。

しかし、今では、その時間のほとんどがTVに奪われ、

共働きや片親の家庭が増えたことで、
一家団欒(だんらん)の時間も失われている。

今の子供たちは、成熟した大人になるための時間も、
そのための豊かな土壌も無いのである。

年間、私はゲリラ的な授業を通して、
子供たち全員に、年320時間のボランティア活動をさせた。

彼らの多くは、人助けというあの体験が、
自分の人生を変えたと、後に私に話してくれた。

彼らに、新しいものの見方を教え、
目標や価値観を考え直すきっかけを与えたようだ。

ただ、そうした”実践教室”は、”あまりにも少ない費用”で
あまりにも大きな成功をもたらした”ために、閉鎖された。

未来は、私たちに、もっと心の学習をするべきだと言っている。

物にあまり金をかけない、自然な生き方をするべきだと言っている。

こうしたことは、いわゆる学校では教えてくれない。

ウェンデル・ベリー(思想家)の言葉

グローバルな考え方をする人というのは、
世界を ただ抽象的な数字によってとらえているだけである。

政治家や実業家はとくにそれが上手で、
彼らの抽象的な考え方や貪欲さは、常に”破壊”をもたらす。

正しい行い・生き方とは、

アレグザンダー・ポープの言う
土地神に受け入れられるものでなければならない。

これには 地域の知識 地域の技術、
そして、グローバル志向の人間には無い”地域への愛”が必要だ。
←この箇所を読んで、南方熊楠氏を思い起こした。)

己を知る

国の解決策ではなく、地域社会に目を向け、
みずからの内面を見つめ「己を知る」ことである。

健全な社会とは、「親しき仲にも礼儀あり」の格言どおり、

誰もがお互いの違いを理解し、尊重することのできる社会である。

----ジョン・テイラー・ガット『バカをつくる学校』 訳:高尾菜つこさん


  ★  

寺田寅彦氏 アインシュタインの教育観』(大正10年)

アインシュタインは次のような事を云っている。

「数学嫌いの原因が果して生徒の無能のみによるか 私にはよく分らない。
むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。

大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。
生徒が知らない事を無理に聞いている。

当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、
あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。

大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、
また教材として自由にこなすだけの力はある。

しかしそれを面白くする力がない。
これがほとんどいつでも禍(わざわい)の源になるのである。

先生が退屈の呼吸(いき)を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。

教える能力というのは面白く教える事である。

どんな抽象的な教材でも、
それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、
好奇心をいつも活かしておかねばならない。

  

School literacy scheme attacked Costly literacy schemes in England have not paid off, with children's reading skills barely improved since the 1950s, an independent inquiry suggests. "Five hundred million pounds was spent on the National Literacy Strategy with almost no impact on reading levels. 2007,11,02 BBC

Poor mathematics skills cost British adults more than £800m a year as shoppers struggle with the most basic mental arithmetic and fail to notice when they have been short-changed, according to a survey published today.
It also reveals that one in three workers - 14.6 million people - admit their inadequate numeracy and literacy skills have lost their company money."Around a third of people surveyed said they feel embarrassed, panicked or afraid when their basic skills let them down. This can lead to a loss of confidence, lack of motivation and even depression." 
2007,02,20 Guardian

★ ★ ★ 

森鴎外 『妄想』 (現代仮名遣い/表現に変更)以下抜粋

生まれてから今日まで、自分は何をしているか。

始終 何物かにムチうたれ 駆(か)られているように

学問 ということに齷齪(あくせく)している。

自分にある働きが出来るように、自分を仕上げるのだと思つている。その目的は 幾分か達せられるかも知れない。

しかし 自分のしている事は、役者が舞台へ出て ある役を勤めているに過ぎないように感じられる。

勤めている役の背後(うしろ)に、別に何物かが存在していなくてはならないように感じられる。

ムチうたれ 駆られてばかりいるために、その何物かが醒覚(せいかく=目をさますこと=覚醒)する暇がないように感じられる。

勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏(かんり=役人)、  勉強する留学生というのが、皆その役である。

赤く黒く塗られている顔を いつか洗って、一寸(ちょっと)舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目(めんもく=顔かたち)を覗(のぞ)いて見たいと思いながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けている。

この役が即(すなわ)ち 生 だとは考えられない。

背後にある 或(あ)る物が

真の生ではあるまいかと思われる。

やる気 「想像力と創造性」を萎えさせない

学問に情けあり 西山夘三 と早川和男 の続き

    

学問に情けあり』西山夘三氏・早川和男氏 

早川和男氏 「21世紀の学問をになう人びとに」以下抜粋

自己の研究テーマに固有の論理、
そこまでいかなくても研究者としての主体性を持たぬままに

言い換えれば、

何のためにその研究をするのかがわからないまま取り組むと、

研究者にとって一番大切な問題意識や、思考力が流行に流され

それを繰り返していると、

”委託研究”に振り回されているのと同じ
ロボット人間のようになってしまう。

この点について、S.K.ネートル、櫻井邦朋
『独創が生まれないー日本の知的風土と科学』
1989年の指摘には、うなずかされることが多い。
以下、《》は同書引用

日本では《民主主義に立った物の見方、考え方の出来ない前近代的な人間の多くが、徒党を組む》から、大学も研究団体も、それぞれが
《ある種のヤクザ・グループに似た存在となる》のは避けられないことになる。

日本人は他人を評価する際に、出身大学、所属機関、集団など、その人の帰属先を見る。それで、この人はこういう人 と決めてしまう。周りがそう見るし、本人もその集団の中で遊泳する。

保守・革新を問わず、
研究団体などでもそこを支配するイデオロギー、党派性などに
自らの思考を染め上げ、

研究者として最も大切な

”自分で考える”ことを自ら放棄してしまう。

《進歩的といわれる人々でも、
心情的には、民主主義からはるかに遠い、
権威主義的、事大主義的なものが多い》 

事大主義(じだいしゅぎ)
=自主性を欠き、勢力の強大な者につき従って
自分の存立を維持するやり方

「御用学者」は、保守・革新を問わず存在するものであり、
その弊害はかつてのソ連の権力追随の学者などを見れば明らかである。

いずれにせよ、研究者の場合、
どういう仕事であれ、体制維持の役割を果たし、

個人が権力構造の中にはめ込まれて、
その地位が与えられている社会では、

個人のindividuality など、望むべくもない。

独創的な人間が生まれてくる可能性など、なきに等しい。

こういう集団主義の社会では、異論をはさめば、居心地の悪いことになってしまう。その集団の思考方式から外れた見解に対しては口をきわめて非難する。《ムラの中でだれかがムラのしきたりから外れたことをしようものなら、いわゆる村八分にさえしかねない。足をひっぱって、自分たちのところまで引き戻してしまおうとする》。

創造性など、はるか彼方のこととなる。

ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏は、
偉い先生からは離れよ」とさかんに強調している。

偉大な業績をあげた先生の側にいると、どうしてもその影響を受け、
あるいは思考が知らず知らず束縛される。

無論、そういう研究室での一定の勉強は
他に替えられない貴重なものだが、
その影響から脱しなければ、それを乗り越えるとまでいかなくても、

主体的に研究にとりくむことは出来にくくなるということであろう。

偉大でなくても、自分の子分を作りたくてしかたのない大学教授がいる。

学問的な覇権を広げたいという欲望にもとづくものだが、

そういう研究室の中に入ってしまうと、

想像力と創造性は、閉塞状態におかれてしまう。

せいぜい亜流にしか育たない。

創造的な研究を目指すならば、

「人は必然的に孤立し、孤高の存在とならねばならない。
他の人々や仲間たちから独立せねばならない。
研究の仕方や、テーマの取り上げ方など、
すべての点で 他の人々から違った視点にたつこと
(エドワード・W. サイード)が必要になる。

人々がグループを作り、その中の一員となって安心を買おうとするのは、
ムラから外れて孤立することを恐れているためである。

日本人学者の多くは、
孤独に十分耐えるだけの強靭な精神を持っていない》から、
革命的な新しい領域を開くテーマが浮かんでこない。

集団主義がとりわけ問題なのは、

自分で考える必要の少ない研究に若い人たちが巻き込まれていることで、

彼らにとって想像力をふくらませる機会は奪われ、思考力は萎える。

その時々の流行が気になり、独創的なアイデアや理論を生む機会が減り、
独自性を失い自主的な研究が出来ない時、
人々が安穏な生き方として選ぶのは、

誰か他人の下について、
その人に率いられるグループの一員となるという道で、悪循環に陥っていく。

日本人に初めから論理的思考能力がないのでなく、
長年にわたり以上のような環境に置かれておれば
そうならざるをえないとみるべきであろう。

《独創に至る道は、ただ単に孤独というだけでなく、
孤独におかれた状態が、時にはきわめて長く続く道である》

どうすれば知の閉塞状態から脱することが出来るのか。
サイードは「知識人はアマチュアたるべきである」と言う。

彼の言うアマチュアリズムとは、
「専門家のように利益や褒章によって動かされるのではなく
抑えがたい興味によって衝き動かされ
より大きな俯瞰(ふかん)図を手に入れたり、
境界や障害を乗り越えて様々なつながりをつけたり、
特定の分野にしばられずに、
専門職という制限から自由になって、観念や価値を追及する

「利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点に縛られることなく、
社会の中で思考し、憂慮する人間」である。

思考方式の人間は、独立・自負の精神がなければ成立しない。

現実は、権威従属・権力追従・集団帰属志向・孤立苦手型人間が多い。

こういう状況のもとで創造的研究に取り組むには、

集団主義から脱し、孤独に耐えうる強靭な精神力が不可欠となる。

主体的で、権力・金力に従属しない学者・知識人

(本当の意味での)職能人・専門家が少しでも増えることが、
この日本をよくする基本的条件の一つと考える。

    

早川和男氏 日本居住福祉学会会長。神戸市在住。

耐震偽造問題をどう見るか ビデオ&記事

ものを考える力をつけることが、抵抗力につながる。

ヒットラーやスターリンのようなものが出てきて

破局を迎えないためには、

予兆を感じ取って、
本質的な転換を図ること それが今、求められている。

江戸時代、日本人はフリーターだった

パオロ・マッツァリーノ氏『反社会学の不埒な研究報告』 以下抜粋

武士と書いてホモと読む

歴史劇や大河ドラマを放送すると、
歴史オタクは待ってましたとばかりに 「史実と異なるぞ」と
重箱の隅を突くような苦情をテレビ局に寄せると聞きます。

武士について調べていくと、避けては通れないのが
衆道(しゅどう)=武士と美少年とのホモ関係です。


それなのに、

時代劇で武士のホモっぷりが描かれることはほとんどありません。

にもかかわらず、なぜ歴史オタクはそれを指摘しないのでしょうか。

氏家幹人さんの『武士道とエロス』によれば、
忠臣蔵事件を 題材にした初期の芝居では、
吉良と浅野の反目も、
美少年 小姓(こしょう)の取り合いを原因としているのだそうです。

薩摩では
琵琶を伴奏に衆道物語が語られ、
主人公の美少年が登場すると、
感極まった観客が声を合わせて「チェストー!」
と叫んだとのこと。

明治31年の本富安四郎『薩摩見聞録』でも、
「薩摩の社会は公然これを父兄の前に談話して人あやしまず」
と書かれています。なんかすごい話です。

つまり当時の薩摩では、一家団欒の夕食の席で、

「父ちゃん、オレ、新しい彼氏ができたんだ」

みたいな話を息子が普通にしていたと考えられます。

☆ ☆ ☆

パオロ・マッツァリーノ氏のサイトでも一部読める箇所
ここでは 書籍版 『反社会学講座』から以下抜粋

事実はひとつ、解釈は無数

江戸時代の町人たちは、
経済発展などとは無縁でも、
適当に楽しく暮らしていたのです。

町人どころか武士でさえもろくに働いてはいません。

鈴木淳さんによると、
幕末の武士の勤務時間は10時から2時までで、
しかも間に 昼休みが1時間。
驚くことに、明治維新後も中央官庁の役人は、
同じ勤務シフトを明治19年まで続けていたのだそうです。

日本人がもともと勤勉な民族だったというのがウソッパチであると、
納得していただけたと思います。

古くは、平城京建設に駆り出されたものの
仕事がつらくて逃げ出した人たちがいました。

それがあまりに多かったので、
取り締まる専門の役所が必要になったくらいです。

当時の大人たちも、
「近頃の若いやつらは、仕事がつらいからって、すぐにやめやがる」
となげいていたのです。

今回私は、資料を見つけるのにけっこう苦労しました。

違法とまではいかないけれど、
不真面目でいいかげんなフリーターのような町人が
少なくなかったにもかかわらず、

そのことに触れている資料はごくわずかしかないのです。

その理由は明らかです。

江戸時代に関する資料や本を執筆した人たちが、
日本人勤勉神話に洗脳された現代人だからです。
しかもそのほとんどは中高年なのです。

彼らはこどもの頃から日本人勤勉神話を教えこまれ、
それを美徳として育ってきました。

ですから、

自分の常識からはみだしたものは、
見たくもないし、調べもしないし、書きもしません。


職人や商人が一人前になるまでどれだけ苦労したか、

なんて話は現代の労働美意識と合致するので喜んで書きますが、

その日暮らしを謳歌していたという事実は、
労働美意識に反するので無視します。


歴史的事実はたったひとつですが、
歴史の解釈は、

のちの世の道徳・倫理観によって異なるという見本です。

★ ★ ★

株式日記と経済展望

『日本の歴史教科書は
キリシタンが日本の娘を50万人も海外に
奴隷として売った事は教えないのはなぜか?』 以下抜粋

歴史教科書などでは
キリスト教弾圧を単なる異教徒排斥としか教えていませんが、

信長にしても秀吉にしてもキリシタンに対しては最初は好意的だった。

しかし秀吉に 宣教師たちの植民地への野心を見抜かれて、

だんだん危険視するようになり制限を設けたが、

神社仏閣の破壊や日本人を奴隷として売りさばく事が
秀吉の怒りに触れて弾圧するようになったのだ。

現代にたとえれば

竹中平蔵などがキリシタン大名として

宣教師たちの手先となって働いているのと同じであり、

日本の銀行や保険会社などを
外資系ファンドなどに売りさばいてしまった。

戦国時代に日本の娘を奴隷として売りさばいたのと同じ行為であり、

竹中平蔵は高山右近であり、
アルメイダのような改宗ユダヤ人が日本乗っ取りを狙っている。

なぜこのような事実が歴史として教えられないかと言うと、

やはり

GHQなどによる歴史の改ざんが行なわれて、
キリスト教や白人などへのイメージが悪くなるからだろう。

もちろんキリシタン大名などの協力があったから
日本女性を奴隷として売りさばいたのだろうが、
彼らは日本人の顔をしたキリシタンだった。

からゆきさんの小部屋

明治~大正、30万人もの日本の若い女性が海外に売られていった。 
『「からゆきさん」の存在を
現在の日本の歴史教育から抹消しようとしているのは、
あまりにも非人道的な過去の日本の歴史だからだ。
それが分からなければ
戦国時代も明治大正と言う時代も正しくは理解できなくなるだろう。

キリストの居ない”キリスト教”
奴隷制擁護(NWO)VS豊臣秀吉とリンカーン

★ ★ ★

「働かざる者、食うべからず」は、
明治以降に、西洋文化とキリスト教にかぶれた人たちが
言い出したのです。

怠惰を罪にしたのは
キリスト教と西欧の金持ちです。

日本人は高度成長期に魂を売った
現在、日本中で鉄筋コンクリート建築が崩壊の兆しを見せています。

小林一輔さんのコンクリートが危ないによれば、
そういった手抜き工事のほとんどが、
東京オリンピック(昭和39年)以降の
高度成長期に作られたものだとのことです。

材料をケチり、工期を短縮し、
ただひたすら純利益をあげることにのみ邁進する。


これが高度成長期の「勤勉」の正体だったのです。

どんなインチキ仕事でも、やっつけ仕事でも、
数さえこなして金が儲かりゃいいんだ。
会社は慈善事業じゃねえんだよ――

高度成長期とは、
職人気質がカネの力に負けた悲しい時代でもあったのです。

江戸時代、日本人はフリーターだった

杉浦日向子さんの一日江戸人によれば、
江戸時代、生粋の江戸っ子の中には
定職に就かない人間がずいぶんいたということです。


結婚して子供がいる男でさえ、
食う物がなくなるとひょこっと町に出ていって
薪割りなどをやって日銭を稼いでいました。
まさに食うために必要なだけ働くという生き方ですね。

当時、世界的にも非常に人口の多かった江戸という都市では、

仕事を細分化することでワークシェアリングが実現されていたのです。

そしてアルバイトが職業、生き方のひとつとして認められていました。

現代のオランダが導入して成功し、
オランダモデルと呼ばれるようになった雇用対策が、
江戸の町で すでに行われていたのです。
日本は雇用形態の先進国だったのです。
日本人はこの歴史的事実を世界に誇るべきです
(世界に誇る江戸

大工や商人のような、
長年の修行が必要な職業についても触れておきましょう。

江戸時代の職業観、労働観は、
現代とはかなり異なっていました。

大工にしても、毎日真面目に働くということはあまりなかったらしく、
みんな自分の懐具合に応じて
仕事に行ったり休んだり、適当にやっていたのです。

大工は雨の日は仕事にならないというのは いまも同じですが、

江戸の大工はもっとわがままです。


夏場は暑いといっちゃ休み、
冬場も今日は寒いからやめたとか

悪くいえば怠け者ですが、

良くいえば人間らしい生き方であります。

こういう偉大な先祖を持つ日本人は、やはり素晴らしい民族です。
日本人は自らの歴史と祖先をもっと誇るべきです。


昔はよかった。たしかにそうです。
西洋文明のサルまねを始める以前の日本人の生き方は、
本当に素晴らしかったのです。

明治時代に、
日本人は勤勉奴隷労働の区別がつかなくなりました。

★ ★ ★

「粗大ゴミ」を癒す「可愛い」女性たち(日本社会)

終電まで働いても、誰も異常だと思わないし、思っても言わない。
だが、そうした状態が異常であることを認識し、
声を大きくして自分の生活を守る

勤勉だと自慢することは良いことだ。
だが、勤勉の裏返しが、個人の生活の犠牲であるのならば、
自慢どころか恥じるべきことである。

★ ★ ★

パオロ・マッツァリーノ氏

イヤな仕事はすぐやめて、
楽そうな仕事、おもしろそうな仕事に就く。
これは、いまに始まったことではないのです。


捏造民族観に洗脳された方は、
この事実を不愉快に受け取ることでしょう。

しかし、私の提唱する
「人間いいかげん史観」に則(のっと)れば、

当然のこととして理解できるのです。

イヤなことをやめるというのは、
人間の本性です。自然な姿です。


そこには自然淘汰の力がはたらいているのです。

学問に情けあり 西山夘三 と早川和男

学問に情けあり学者の社会的責任を問う』西山 夘三氏と 早川和男氏 
すまい・まちづくり界の“南方熊楠”と呼ばれる西山うぞう氏を取り上げる。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

学問の土台は、人間がどう幸せになるかにあって、
専門家としての自覚と同時に市民としての自覚が生命なんです。

学者としての社会的責任を果たす運動を
まるっきり何もやらん研究者のほうが多かったね。

社会のことは見ず、知らず、考えず、
自分の研究さえ専心してやっておれば「いい学者」になれたんです。

彼らにとって社会とは、
国民、住民のことではなく、国家や資本なんですよ。そっちの方は頑張る。

研究開発はね、市民のためにやっているんやない。
自分の学問のためにやってるんです。

彼らには矛盾なんてない。

有名な話で、第二次世界大戦が終ったあとで、
いろんな分野の学者に 戦時中はどうでしたか、と聞いたことがある。

工学関係の連中は、
戦時中ほど潤沢で自由に研究できた時代はない、と言いましたよ。

そのとおり、学者には徴兵もなく、
政府や軍部、軍需産業からいろんな保証を受け優遇されて、
それこそ研究に専心できたわけですから。

旧満州の「731部隊」で人体実験などにかかわった医学関係者など
その象徴的な例ですよ。

無知であり無関心です。

つまりね、

最低の市民としての歴史認識をふくめた社会教育も
当時の研究者は受けておらなかったのです

たとえば、儒教精神による権力への忠誠と迎合は叩き込まれていますが、 ものごとを社会的に総合的・批判的に見て考えることは養われてはいなかった。だから関心も育たなかったのです。

戦争直後は、自由だとか平和だとか元気に言っておったけど、
だんだん世の中の変化に順応して、変身してしまった人がたくさんいます。

主体としての学問自身、学者自身の問題ですよ。

学問の性格が社会のどこに結びついているか、ということです。

    

Nobel Prize winner Dr James Watson was this week banned today from speaking at London's Science Museum after reportedly saying black people were less intelligent than whites.

In an extraordinary outburst, the veteran academic, 79, claimed he was "inherently gloomy about the prospect of Africa" because "all our social policies are based on the fact that their intelligence is the same as ours - whereas all the testing says not really".
But his remarks prompted outrage with critics branding his remarks "racist" and "offensive".


The geneticist, who won the Nobel for his part in discovering the structure of DNA, was due to give a talk on Friday, but outraged directors took the decision earlier this week. 19th October 2007

Alan, Frankfurt, Germany
Highly educated people in research and academia often loose touch with reality. Statistical research can also show whatever you want it to show. Even the 'hard sciences' change theories about matter etc when particular hypotheses have been proved or disproved. Nothing is permanent. It would be foolish to 'look down' on other cultures and deem them 'inferior', that is just intellectual snobbery!

  ★

藤本英夫氏 『知里真志保』

知里真志保は『アイヌ語入門』を出版した。

この本の中で、バチェラーをはじめ、

高名な、その道の権威者と評のあるアイヌ研究者たち数人を、

こっぴどくやっつけ、罵倒している。

この本の戦闘的な激しさについては、
大江健三郎が『文芸』(昭和42年3月号)で、
「名著発掘 アイヌ語入門」と題して感想をのべている。

「知里博士が戦いをいどみ、絶対に全滅させるは、
一般的には良きアイヌ理解者と目されている学者たちである。

博士はそうしたアイヌ理解者の精神の奥底にアイヌへの見くびりや、
安易な手をぬいた研究態度を見つけ出して、それを叩きつける。

しかもその怒りの声の背後からは切実な悲しみの声も聞こえてきて...」

私は、この大江の見方は正しく的を射ていると思う。

知里「僕の背後には、一万数千のアイヌがいる。

僕は、その一万数千のアイヌのためにも頭をさげることができないのだ」

以上 『ドキュメント日本人2 悲劇の先駆者』から抜粋

知里真志保(ちり・ましほ/ 1909-1961):北海道登別の名門アイヌに生まれる。ずばぬけた語学力に恵まれ、被征服民族アイヌの生活を見て育った彼は、アイヌ研究家、アイヌ語学者となった。一高、東大、大学院というエリートコースを歩みながら 彼の研究は、従来の、アイヌへの同情や、べっ視に立脚した研究を鋭く告発した。彼の研究には、被征服民族の、彼自身の悲痛な叫びが核となって貫いている。

  ★  

7・3・1と原爆-- 実験データを握 る-- World Government

AMERICA BETRAYED by Rhawn Joseph, Ph.D.
The United States was most eager to obtain his expertise. In a deal arranged by General Douglas MacArthur—a man who twenty years earlier had ordered his soldiers to shoot U.S. workers who had gone on strike for better wages— Ishii became an invited lecturer at the U.S. Army bio-weapons center in Frederick, Maryland. The U.S. Army also obtained over 10,000 pages of Ishii’s “research findings.”Nazi know-how was also exploited by the CIA and U.S. government...http://www.american-buddha.com/americabetrayedch8.htm


忍野氏『太平洋戦争に日本が引きずり込まれ、真珠湾攻撃の罠 にはまり、
あまつさえルーズヴェルトに「卑怯な先制攻撃」という口実を与える失態
実は共同作業)を演じたのは、外務省ではなかったか。』


One aspect of suppressing the antifascist resistance was the recruitment of war criminals.
旧日本陸軍は、
京都帝国大学医学部出身の石井四郎軍医中将の総指揮により、
生物兵器の開発、それの人体実験を戦争終結ま で行った。
その中心的実行機関が、満州731部隊

化学兵器、生物兵器の開発を推進していた米 国は 
戦 後、石井軍医中将らを米国側に協力させ、
BC級戦争犯罪人訴追の対象から 外した。

生物兵器開発に関係した日本人研究者たちは、
戦後、GHQの指示で設立された「厚生省 国立予防研究所」に就職。

1947年に米国側が広島・長崎に設置した
「原爆傷害調査委員会(ABCC)」の被爆者調査研究全面的に協力
1975年「財団法人放射線影響研究所」として
日本の公益法人に再編、存続されている。
ア メリカに問う大東亜戦争の責任長谷川熙(ひろし)氏

今の薬害肝炎訴訟が、 頭をよぎる。731部隊との線

「厚生省 国立予防研究所」も「原爆傷害調査委員会(ABCC)」も
被爆者の治癒に専念するのでなく、
被爆者の肉体的・精神的障害の進展状況を研究していたのである。

被爆者はABCCに診察を強要され、
全裸にされてさまざまな検査をされた。
そして被爆者が亡くなった場合家族は
検屍解剖を強制的に承認させられたのである。 
被爆者は最後の最後まで人間として扱われる事がなかったのである。
「死の工場」ショルダン・H・ハリス著より

続き... やる気 「想像力と創造性」を萎えさせない

学校教育って、一体誰のため?

塾・予備校に通わないと受からない受験システムが子供の肩にのしかかり、
高い教育費が 家計を苦しめている
年収400万未満世帯の在学費用は年収の49.2% 図10参照)。


遺児母子家庭の平均勤労年収は、
98年の200万円から145万円に落ち込み、
生活保護の母子加算廃止方針が この窮状に拍車をかける。


ヨーロッパでは、卒業資格試験に合格すれば
自動的に大学入学資格を得られる。

つまり、大学へ入学するのに塾・予備校へ通う必要性が無い。

大学に入っても、基本的にどこも無料
(社会で負担しようという考え方)だから、
「母子家庭」だろうが「親がリストラにあった」からと言って、
希望を捨てる必要は無い。


もしも、本気で子供のことを考えるなら、
子供が自由に発想を広げる場=『考える力』
『情報選択能力』を伸ばす授業に変え、
『暗記主義・点数による序列化重視』を改めるはずだ。

卒業資格試験を導入すれば、受験に特化した勉強を
別枠で設ける必要もなくなり、学校独自のカリキュラムを組める。


高等教育での公費負担の割合 TABLEB3-3 PDF25
2000年 OECD 平均  80.2%
1位からギリシャ、デンマーク、フィンランド、オーストリア、
ノルウェー、トルコ、アイスランド、ポルトガル

9位ドイツ91.8% スロバキア スエーデン フランス85.7% (略) 
イタリア77.5% (略) スペイン74.4% (略) イギリス67.7%


ワースト3は 韓国23.3% アメリカ33.9%  日本44.9%

2003年 日本を見ると39.7% 下がってる!

韓国23.2% アメリカ42.8%  ワースト2になった。

学費・給食費・教材費無料の国がある一方で日本の親御さんは大変だ。
「給食費未納問題」で、
「社会保障削減問題」「大企業大幅減税問題」を棚上げにして、
未納者吊るし上げに国民が踊っていれば、政府は楽だ。

しかし国民も政府も、
本当に家計が苦しい家庭の子供達の首を
さらに絞めている現実には 無関心なままだ。


踊らされて、弱者叩きに夢中になればなる程、
日本の未来が霞み 沈む。


スーパーサイエンスハイスクールで一部の子供達に教育費をかけ 将来、
金にならない教科は切り捨てている。「いかに生きるか」なんて考えるな。
「いかに稼ぐか」だけ考えて生きろ と言われているようなものだ。

鶴見俊輔氏 『戦争が遺したもの 以下抜粋
「人間を成績ではかっちゃう人間は、”つくられた人”なんだ。
自分で考える力はないんだけど、学習がうまい。

だけど教わっていないこととか、
試験に出ない範囲のことが出てきたら、そのまま溺れちゃうね。

学校に試験で入って欧米の知識を並べて話せる人間が
権力の座につける仕組みが出来た。

するとみんな知識人になろうとして、試験で模範解答を書こうとする。

先生が思っているとおりの答えをうまく察して手を挙げて答える。

そういう”知識人”がどんなにくだらないかということが、
私が戦争で学んだ大きなことだった。」 



宇井純氏 『この国のゆくえ 以下抜粋

「生産優先、権力奉仕のための学問が東大では教えられてきた。


私自身の経験を振り返ってみても、

確かに生産のために必要な勉強はしたけれども、

人間を優先する教育はほとんどなかったことに気づく。

戦後、多数派は
あまりにも自己の利益だけを追いすぎたのではなかろうか。


その結果、生じているのが二極分解と全体主義化の恐れであり、

鯛と組織は頭から腐る”という言葉があるように、
私の生態学の体験からも、生態系全体が崩壊する時には、
実は強者から潰れていくのである。

いま、”勝ち組”といわれて、この世を謳歌している連中のほうが
むしろ早く生態系の崩壊を身に受けるだろう。

この事態を誰かのせいにする前に、
足元に目を向けて見る必要がある。」    


母子加算廃止””児童扶養手当大幅削減”とは、

”最低生活保障として手をつけてはいけないところを削る”ことを意味する。

新自由主義者による「小さな政府」行き着くところの

弱肉強食 格差社会」からは、  

”人としてあるべき姿” が全く見えてこない。

生存権と国の社会的使命について 憲法第25条

すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障

及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。