池口恵観氏 憎しみや悪意の種を消す 祈り

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日本人の力の源 森と水を守るアニミズム

安田喜憲氏 『一神教の闇』 以下抜粋

人間や民族の行動を決定づけるものは、

自然観や世界観であり、

それは数千年に及ぶ風土との関わりの中で醸成されてきたものである。

日本人の力の源は、

縄文時代以来の森を畏敬し森を守る文明を発展させ、

弥生時代以降は里山の資源を循環的に利用し、

美しい水の文明を発展させたアニミズムだった。

美しい「森と水の文明」が「利他の心」を養い、

哀しみを抱きしめて(やられたらやりかえす果てしない

復讐の連鎖を断ち切って)生きる「心の作法」を醸成した。

その原点にあったのは「アニミズム」である。

それは平和の心にも通じている。美しい森と水を守る心が、

「平和と慈悲の心」を醸成し、「アニミズム的応戦」を成し遂げた。

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池口恵観氏 『空海と般若心経のこころ』 以下抜粋

呪詛(じゅそ)をすれば、必ず 自分にはねかえりますし

自分にかからなければ、子孫に返ってくるのであります。

悪呪(あくじゅ)も使いようによっては、

善呪(ぜんじゅ)となりうるのでありますが、

それこそは、強い意思によって  これを守っていかねばなりません。

お釈迦様が、あるとき罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びたそうであります。

罵詈雑言=口を極(きわ)めた 悪口

お釈迦様は、静かに その者に申されました。

私は、お前の言葉を いただくつもりはないから、

そっくり お前に返してあげよう」 

これは、言葉を大事にしなさい、「愛語」の教えでありますが、

さらには、自分が投げかけたものは 

必ず自分にかえってくるという教えであろうと思います。


お釈迦さまだから、他人が浴びせた罵詈雑言に心迷うことなく、

そのまま本人に返しましたが、凡人はどうでありましょう。

ついつい受け取ってしまって おまけをつけて 返してしまいます。

”一つの悪意”を受け取ってしまえば、二つにして返したくなります。

迷った気持ちは、かならずや自分のところへ戻ってくるのでありますから、

もう往復で 悪意は倍に膨(ふく)らみます。


これをやりとりしているうちに、悪意は際限なく大きくなってしまって、

結局は自分も相手も さらには人間社会を汚していってしまうのであります。


人間の心に生まれる悪意が凝り固まって、憎悪となり 敵意となって

見えない心の内のはたらきが、やがて戦闘という見える形となって 

身の内も外も滅ぼしてしまうのであります。


私が続けております平和祈願とは、

そうした一人一人の心に ポツンと生まれ、

無意識のうちに やったりとったりしながら

大きくなってしまう憎しみや悪意の種

消してしまおうという祈りであります。


大地に残る憎しみの霊が、その土地で生きる人や ゆかりの人に 

憎しみの種を蒔いてしまうのであります。

霊になってなお、

自分で蒔いた煩悩によって苦しんでいる者たちに成仏してもらうこと、

それが 人々の心から憎悪の炎を消していくことになるのであります。

病気になることも 同じであります。

心身のどこかに巣くってしまった不安や悪意、あるいは恐怖が 

知らず知らずのうちに増殖して、

見えない病巣が見える病となって人間に警告を発します。

「お前はこんなに不安と恐怖に わが身を占領されているのだぞ」と。

見える病巣は、西洋医学 あるいは東洋医学で治療できますが、

見えない病巣を治療するのは、加持(かじ)であります。

加持(かじ)=護念ともいう。仏の大慈悲心が人々に加わり、
人々の信心に仏が感応して お互いに感得し合い道交すること。

私にとって、平和祈願は 地球の見えない病巣に対する治療であり、

病気に苦しむ人々を少しでも楽にしてあげたいと祈ることと同じであります。


「あぁ人生は虚(むな)しい」と思ってしまった時、深呼吸してみましょう。

少なくとも、酸素が体内に入ってくる。

つまり、自分は自分の生命を生かしてくれるものに

包まれて存在しているのだ と知ることができます。

虚しいと思うとき-- それは大方は、

自分の欲しいものが手に入らないと思い込んでいるときであります。