月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す

われわれの持っている価値観が世界人類の未来に 
なにがしか 役に立つことがあればいい。

それを 世界に広めるとか、教える 
と言うとこれまた語弊(ごへい)があるのでしょうが

日本人が 日本人であることを深く自覚しているかぎり、
そして それを 喪失しないかぎり、
いずれ そうなってくるような気がするんです。

日本人が戦闘的になったら、
彼らの文明と 変わりない ということになってしまう。

その意味では、日本人は あるがままに、

「保守」の意識でいることが第一だと思うんです。

虫の声、花のささやきを聞いて の続き

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

大和民族は 世界で一番 物欲の薄い民族でした。

豊かな自然環境と、 
他民族の侵略の ほとんどなかった奇跡的な歴史のために

特に 金銭的な貪欲さに対し、長いこと 無縁でした。

誰もが皆 「お互い様」で生きているという哲学が

このクニには 古代から伝統的に 根付いていました。



金銭・物欲の独り占め志向、

そのみなもとである 土地・領土の拡張を発端とする「量の文明」と、

人間関係(人事)の和
最優先とする価値観を持った「質の文明」の違いは、
--書ききれないほどありますが

言葉・言語の彼我(ひが=相手と自分 あちらとこちら)の機能や
性格の違いは、その中でも特に顕著な差異であり、
興味の尽きない問題なのです。

あくまで争(あらそ)い、
すなわち戦争を前提として生まれた「量の文明」は、
言語をも武器として発達させました。

相手を言い負かすこと、自我を主張し、顕示(けんじ)することを
最大の目的とした単語の一つ一つは、
鋭利な刃物のように 鋭い明確性(合理性)を
持っていなければ なりません。

「質の文明」の言葉として発達した

日本語の持つ曖昧(あいまい)さ =直感性 など、
あってはならないわけです。

武器として相手に言い勝ち 説得する言語の技術は、
すでに紀元前5世紀に 訴訟に勝つための必須手段として
シシリアで生まれ 体系化され、
その後 2千年以上もの間 白人社会に継承され、
理論化・実用化 されたのです。

無論、現在の英語をはじめ、すべてのヨーロッパ語は
その流れの中にありますし、日本語以外のすべての言語も
同じような歴史を持っています。

しかし、そのような争いの 
まったくと言っていいほどなかった日本社会では
言葉は武器としてではなく、芸術(ウタ)として、
美として 生まれ発達したのです。

言葉を曖昧(あいまい)にする というのは
決して 人間的能力が劣っているからではなく、

むしろ 逆に 非常に高度な能力なのですが、

それも 日本語が 争いのためではなく、

芸術として 根付いていたことの 証拠なのです。

言葉が 曖昧であるということは、

お互いの感性を 信頼しあい、

婉曲(えんきょく)な話法で
無限のニュアンス(=微妙な意味合い)を
相互に伝達できる という前提がなければなりません。

芭蕉(ばしょう)の発想
すべてを言葉を使って言い尽くすことは まったく価値がない

『古事記』にもあるように、
日本は 言挙(ことあ)げ(= 討論)しないクニ
言霊(ことだま)のクニ】という発想にも 共通しているのでしょう。

言葉の霊力に対する恐れは、

どこかで 美の冒涜(ぼうとく)を慎(つつし)む心と
一致しているように思われるのです。



自明の理
=言葉や概念に対して、理屈で証明することなく それ自体で 明白なこと

ほぼ単一民族で、
同じ感性、同じ発想、同じ価値観を持った民族だったからこそ

この【自明の理】を
私たちは 日常生活のなかに 数多く共有し合って
やってくることができました。

国語・日本語は そうした【自明の理】を基礎として
何千年もの長い歴史のなかで 発展させ 磨きあげた、
世界に類のない 特殊の言語なのです。



日本の言葉に 明確な限定性、
つまり 科学性、武器性がないのは そのおかげです。

日本語は 一つ一つの言葉に
含蓄(がんちく=言葉の表面に現れない深い意味)が豊かであり、

味が深く、 耳とココロにやさしく 柔軟で

限りなく情操(じょうそう)をかきたて、
精神的な創造性と 想像性に働きかけ、
人間の質を 高めるのです。

情操=美しいもの、すぐれたものに接して感動する、情感豊かな心。



常に 他民族の流通が激しく、

戦争が 日常茶飯事だった諸外国では、

逆立ちしても 真似のできない言葉の機能や性格だったわけです。



それが今、

ほとんど 全滅してしまっています。


私たちは 歌を忘れた金糸雀(かなりや)なのです。

私たちは なんとしても 象牙の船を見つけなくてはならないのです。

    

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
後(うしろ)の山に 捨てましょか

いえいえ それは なりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
背戸(せど)の小藪(やぶ)に埋(い)けましょか
(背戸=家の裏口、家の後ろの方)

いえいえ それは なりませぬ

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
柳(やなぎ)の鞭(むち)で ぶちましょか

いえいえ それは かわいそう

唄を忘れた金糸雀(かなりや)は
象牙(ぞうげ)の船に 銀の櫂(かい)
(櫂=船を人力で進めるための棒状の船具)

月夜の海に 浮かべれば

忘れた唄を  おもいだす

童謡『かなりや』 作詞:西条八十氏 
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支え手(親2+祖父母4+etc)の1人に恵まれて

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