林秀彦氏 【子どもは求めている。なにを?希望を!】
林秀彦氏 2010年11月19日 福岡県久留米市の病院で死去。76歳。
『憎国心のすすめ』まえがき 以下抜粋
希望は絶望から生まれる
私にとっての神とは
希望を生じさせるすべての媒介手段とその媒質、
音を伝える空気のようなものだ。
本文では 私は悲観的であり、絶望的だ。
しかし、最初にはっきりさせておこう。
昔の人が信じた光の媒質・エーテル*のようなものは、
かならず存在している。
私は 奇跡的な偶然を信じる。
この人生で、何度か起きた 神が人間に与える「はげまし」のことだ。
希望は 個人が作るものである。
地道な個人のはたらきかけが、ひとつづつの扉をあける。(門+鳥居=開く)
この「まえがき」を書くことに迷っていた日、
一通の私信と資料が送られてきた。
こういう偶然の一致こそ、
私には 奇跡的な神の力であり、希望である。
この若者の 地道な 子供へのはたらきかけ、
長年の努力の進展は、
私に絶望を忘れさせるものだった。
悲観のどん底に打ちひしがれている
まさに その瞬間に、
見も知らぬ人からの 希望の封書が、
デスクの上に 乗っていたのだ。
人間の 真心の行動には、
すべて それを生ましめる動機が不可欠である。
動機が純粋であり、
真摯(しんし=まじめで熱心なこと)であればあるほど、
行動は 希望を代弁する。
動機は、
その行動目的の真反対の現実から生まれなくては
本物ではない。
日本がいま、かつて一度もなかったほどの
絶望的状態にあることは 間違いない。
だからこそ、
いままでの歴史になかった
強く大きな希望が生まれる可能性は 充分にある。
その希望の核は、 子供たちの中に眠っている。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
加藤秀俊氏 『独学のすすめ』 以下抜粋
【親の期待にこたえる】
という 珍妙な「教育」
こんにちの多くの親たちは、子どもたちの教育について、
親じしんの 経験の補償を求めているかのようにもみえる。
じぶんは 英語が不得手だったから、子どもに英語をやらせたい--
--要するに、じぶんのできなかったことを子どもに課し、
それをこどもが実行してくれることを 期待するのだ。
情としては、それはわかる。
わかるけれども、それは、すこし勝手すぎるはなしではないか。
見果てぬ夢は 誰でももっている。
しかし、その夢を 子どもを手段として実現しようとする、
などというのは いちばん いけないことだ。
夢は じぶんで追うのがよい。
その補償を 子どもに求める、などというのは もってのほかのことだ。
☆
こうした親のがわからの補償要求としての教育観は、
ふしぎな現象を発生させた。
--自発性というものが さっぱりなく、
親の期待にこたえる というだけのために大学に入ってくる若ものたち--
もっぱら 親のために進学する人間が いくらふえたって、
日本の学問や文化は よくならない。
むしろ わるくなるにきまっている。
このような図式は、ひとむかしまえの学生たちをとりまく
社会的力学とは まったく正反対であることに注意しよう。
百姓の子が 学問なんかして何になる、
だいいち、そんなカネがあるものか--親はそういって子どもを叱った。
それにもかかわらず、子どもは それを振り切って学問した。
子どもの向学心のほうが、親の期待より 高かったのである。
☆
人間が他の人間の生命を奪うことは 罪悪である。
それとおなじように、
人間が 他の人間の人生を
勝手に操作することも 罪悪ではないのか。
☆
わたしの友人のなかには、制度上の学歴がとぼしくても、
その読書力によって、そこらの あまたの大学卒をはるかにしのぐ
学識をもった立派な知性人が たくさんいる。
他に知識を手にいれるための手段がなかった時代には、
学校に通うことは 絶対に必要な教育の方法だったのだろうが、
こんなにもたくさんの本にとりかこまれている現代人にとっては、
よほどいい学校、いい先生にめぐりあわないかぎり、
学校なんて、なくたっていいのではないか、とさえ思われるのだ。
わたしのみるところでは、かなりの部分は、
読書によって カバーできるはずである。
かつて高等教育をうけられなかったことを後悔するだけでなく、
それをとりもどすための読書にも、もっと注意がむけられてよい。
--教育というのは、子どもの問題 というだけでなく
--おとなの問題であり、人間一生の問題だからである。
新聞や雑誌は たくさんの人が読んでいる。
しかし、きっちりした本を きっちりと読むことが
ほとんどおこなわれていない。
本が高くて買えない としても、
その気になりさえすれば 図書館だってある。
本は、いくらでも読めるのである。
--本を読むのは若いとき、年をとったら本なんか読まないもの--
そういう思いこみで子どもと接触していたのでは、
家庭教育など できっこない。
わたしのかんがえでは、
ほんとうの、のぞましい「教育ママ(パパ)」とは、
自己教育に熱心なママ(パパ) のことだ。
☆ ☆ ☆
全国の図書館が所蔵する和図書を一括検索可能
国立国会図書館
資料の検索⇒総合目録⇒総合目録ネットワークシステム
最寄りの図書館に無ければ、全国から借りられる
学校生活で作られた”自分の仮面”を はずす
日本社会-- 家庭-- 父親の不在 断想
自国の善をもって自国の悪を討つ
学校教育って、一体誰のため?
「謎を解く鍵」なら エドワード・サイードから貰える
”平和な”式典・”安全な”原発--騙される側「うつけ者」
トルストイ--生きる光を見失って
加藤秀俊氏 データベース
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
*「エーテル」を否定するマイケルソン−モーリーの実験で有名な
アルバート・マイケルソン博士--「自分の右手を懐に隠している」
--これは、俗に「私はフリーメーソンのメンバーである」
と確固たる自信を持って記録に残す時のしぐさであると言われている。
かの坂本龍馬がそれである。kazumotoIguchi's blog より
さらに...
http://quasimoto.exblog.jp/13712051/以下ほんの一部抜粋
(抜粋箇所以外も お勧め)
昨今の日本のテレビ番組にある日本の歴史も非常に怪しいものが多い。
一番有名なのは、「南京大虐殺」なる言葉は朝日新聞がねつ造して
アジア世界に生み出し たという事件。
していまやそれが世界の常識となってしまった。
私個人は結構好きな観点であるが、坂本龍馬や坂の上の雲など
司馬遼太郎の世界観、江藤淳の 世界観などもかなり怪しいようである。
こういったものは、「歴史改変」、「歴史のねつ造」
というアジェンダに属する。これもイルミナティーの戦略の1つであるから、
電通を指揮している「在日朝鮮人」がそれに従わないはずもないだろう。
残念なが ら、今では何一つ信じられるものがない
という混沌の時代に入ったのである。
したがって、何事も自分の目で見、自分の頭で考えて、
自分で感じて判断しなくて はならない時代に入っているのである。