学校生活で作られた”自分の仮面”を はずす
★5年生が、今の大学レベルだった頃
本人に学ぶ気があれば、
実は、読み書き・計算は100時間もあれば教えられる。
その秘訣は、誰かから質問が出るまで待つこと、
生徒の気分が乗っているうちに、ドンドン進めることだ。
読み書き・計算の能力を独学で身に付けた人も多く、
本当はそれほど難しいことではない。
1850年に使われていた5年生の算数や作文の教科書を見ると、
その内容が現在の大学レベルに相当することがわかる。
★すべては ここから始まった
ロックフェラー総合教育委員会の
使命記述書(マニュフェスト)1905年 抜粋
『我々の夢は、人々が我々の作る型に おとなしく身を委ねることである。
我々の使命はごく簡単である。
子供たちを組織化し、彼らの親が不完全な方法でやっていることを、
彼らには完全な方法でやるように教えることだ。 』
最初に学校制度の構想をまとめたのは、
教育改革者のホーレス・マン、シカゴ大のハーパーとシアーズ、
コロンビア教育大のソーンダイクといった人々で、
その目的は”大衆を厳しく管理すること”だった。
つまり、学校は 公式どおりに行動する人間、
コントロール可能な人間を生み出すために作られたのである。
この役割は見事に果たされ、社会ではますます階級化が進んでいる。
そこでは、「支配階級」だけに自立と個性が許され、
それ以外の大衆は 問題にされない。
南北戦争を境に、中央統制が強まったアメリカでは、
人々の生活、服装、食べ物、あるいは東西に走る幹線道路など、
あらゆる面に、支配の影響が表われた。
おそらく、麻薬や自殺、離婚、暴力、虐待といった問題が蔓延しているのも、
社会の閉鎖的な階級意識とともに、私たちの生活が非人間的になり、
個人や家族、地域社会の重要性が
顧(かえり)みられなくなったからではないか。
これは、中央統制がもたらした衰退である。
当然、義務教育はますますエスカレートし、
子供たちを地域社会から遠ざける。
子供の教育を、”専門家” に委(ゆだ)ねることで、地域社会を崩壊させ、
子供を成熟した人間にさせないようにしているのだ。
アリストテレスによれば、
『人は、地域社会で積極的な役割を果たさないかぎり、
健全な人間には なれない』
彼の考えが正しかったことは、
学校や老人ホームを見れば、明らかである。
子供たちは、大人の世界や将来に無関心で、
ゲームや暴力といった気晴らし以外、ほとんどすべてに冷めている。
ゆがんだ学校教育は、望ましい人格形成を妨げている。
実際、学校や教師が生き延びているのは、
子供たちの、こうした”未熟さ”のおかげである。
その証拠に、批判的思考の手段
《論理や自由な発想》を教えようとする勇敢な学校は、
どこも長続きせず、やがて破綻してしまう。
皮肉なのは、学校教育に必要な”意識改革”を行なうと、
新しい学校は今よりずっと金のかからないものになるため、
利権者が改革に消極的だということだ。
彼らにとって、”教育はビジネス”であり、
たとえ子供の育成に役立つとしても、
そのために業務を縮小したり、
商品を多様化させたりして、利益を削ることは出来ない。
★90年間にわたる着実な繁栄(?!)
1980年代から1990年代にかけての好況期、購買力が増したのは
実は人口の20%で、残りの80%は逆に13%減少した。
実際、そこにインフレの要因が加わると、
1995年の共働き夫婦の購買力は、
1905年の単身男性労働者のそれを 8%上回るだけだった。
繁栄に対する実態は、両親を家庭から遠ざけ、
子供たちを託児所や商業的娯楽施設といった管理体制に放り込ませた。
子供たちをクラス分けし、
互いに対立させることによって、階級構造を確立した。
そして、富と権力を一部の人間に 危険なほど集中させた。
10代の自殺率は世界最高で、
自殺する子供の大半は、貧困家庭ではなく、裕福な家庭の子供である。
マンハッタンでは、新婚夫婦の70%が、5年足らずで離婚する。
麻薬取り引きは、アメリカを中心に行なわれ
(私たちアメリカ人が、麻薬を買うのをやめたら、
このビジネスは成り立たない)、学校はその重要な販売ルートになっている。
この国は、明らかに狂っているのだ。
★ちょっとブレイク★
非常に優秀で真面目な人々が
安易にクスリに頼っている日本の現状...
新型抗うつ剤は覚せい剤類似物資である。
したがって自殺者は倍増する。
新世代の抗うつ剤を飲む前に ”ネットで調べた?”
Japan as a client state..
★ ★ ★
学校の危機は、地域社会の危機と関係がある。
子供と高齢者は、隔離され、世間から完全に無視されている。
もはや、彼らに話しかける人はなく、
日常生活で、両者が触れ合うこともない。
そんな地域社会では、未来も過去もなく、ただ 現在が続くばかりだ。
私たちは ネット社会に生きており、そこでは誰もが1人ぼっちだ。
学校という分類装置を使って、ピラミッド型社会を作り、
その最下層にいるのが、物乞いしたり、公園で寝たりする人々である。
30年の教師生活をとおして、私は興味深い現象に気付いた。
学校は、世の中の創造的活動から取り残されている。
もはや科学者が科学のクラスから生まれるとか、
政治家が公民のクラスから生まれるとか、
詩人が国語のクラスから育つと思っている人はいない。
実際、学校は 命令に従うことしか教えていない。
20世紀が進むにつれて、とりわけ第二次世界大戦後、
学校は企業と政府のための行動訓練センター、実験施設になった。
この計画の当初のモデルは
プロイセン(ドイツ)だったが、それを覚えている人はほとんどいない。
学校は懲役そのもので、
繰り返される「標準」テストのプレッシャーが子供たちを苦しめた。
しかし、そのために彼らがどんなに勉強しても、
結果は現実を測る尺度にはならなかった。
ブッシュetc..のように、たとえ標準学力テストのスコアが平凡でも、
大統領、議員、知事になれるなら、
こうしたテストは一体何を測っているのだろう...
★依存的で無目的な生き方に
弱者を守る地域社会は衰退し、孤独なネット社会だけが生き残る。
従うことに慣れた人々は、自分の頭で考えることを知らない。
要するに、他人に対しても、自分に対しても、役に立たないのである。
こうした悲劇の原因は、
30年前にポール・グッドマンが言ったように、馬鹿げた学校制度にある。
子供たちの生活は、二つの習慣に支配されている。
それは「TV」と「学校」である。
今の子供たちには、一人前の大人になるための知恵を学ぶ時間が無い。
裕福な家の子供は、TVを見る時間が少ないが、
その代わりに彼らは 意に沿わない習い事に追われている。
彼らは自分の時間の使い方がわからず、
自己の存在の意味も、目的も、その喜びもわからない。
この 依存的で無目的な生き方は、国民的な病気である。
それは、「学校」「TV」「習い事」と深い関係があるはずだ。
深刻な社会問題-麻薬や暴力、愚かな競争、性の乱れ、
ギャンブル、アルコール、そして金品の執着-----もまた、
実は ”依存的な人格”による病気であり、学校教育の産物にほかならない。
教室という水槽の中で、教師に気に入られようとする彼らは、
次第に臆病になり、慢性的に退屈になり、
やがて 生きる目的を失ってしまう。
子供をもっともダメにするのは、マンネリである。
学校教育は、12年間の禁固刑のようなもので、
そこで教えられるのは悪い習慣だけだ。
最優秀教師賞までもらった私にとって、
これは紛(まぎ)れも無い事実である。
(...That's why many people just don't seem to care enough about what's going on in the world. )
★学校で教えない”大切なこと”
地域社会は、家族や友人が集まってできたものであり、
そこでは他者との深い絆が重んじられる。
私たちは他人から関心を向けられてはじめて、自分に価値を見出せる。
裕福な人も貧しい人も、
誰もが自分をかけがえのない存在と感じることが出来る。
一方、制度の中では、誰もが他人に関心を持つことなく暮らし、
知らない人間に対して常に脅威を感じている。
人々は皆、自分の殻に閉じこもり、目立つことを嫌う。
学校という制度の社会も これと同じだ。
見せかけの社会の見せかけの絆は、強固のように見えて壊れやすく、
永遠のように見えて はかなく、頼れるように見えて 実は役に立たない。
家庭や地域社会が再生されれば、
子供は かつてそうだったように、自分の力で学ぶようになる。
今の彼らには、金銭以外に努力する目的が無いが、
金はけっして根本的な動機にはならない。
大切なのは、彼らが自分や自分の家族を信じ、
自発性や忍耐、勇気や自信、品位や愛情といったものを学び、
他者への奉仕を学ぶことである。
今の子供たちが病んでいるのは、
こうしたことを学ぶ機会を奪われているからだ。
30年前なら、それらはまだ放課後に学ぶことが出来た。
しかし、今では、その時間のほとんどがTVに奪われ、
共働きや片親の家庭が増えたことで、
一家団欒(だんらん)の時間も失われている。
今の子供たちは、成熟した大人になるための時間も、
そのための豊かな土壌も無いのである。
5年間、私はゲリラ的な授業を通して、
子供たち全員に、年320時間のボランティア活動をさせた。
彼らの多くは、人助けというあの体験が、
自分の人生を変えたと、後に私に話してくれた。
彼らに、新しいものの見方を教え、
目標や価値観を考え直すきっかけを与えたようだ。
ただ、そうした”実践教室”は、”あまりにも少ない費用”で
”あまりにも大きな成功をもたらした”ために、閉鎖された。
未来は、私たちに、もっと心の学習をするべきだと言っている。
物にあまり金をかけない、自然な生き方をするべきだと言っている。
こうしたことは、いわゆる学校では教えてくれない。
★ウェンデル・ベリー(思想家)の言葉
グローバルな考え方をする人というのは、
世界を ただ抽象的な数字によってとらえているだけである。
政治家や実業家はとくにそれが上手で、
彼らの抽象的な考え方や貪欲さは、常に”破壊”をもたらす。
正しい行い・生き方とは、
アレグザンダー・ポープの言う
「土地神」に受け入れられるものでなければならない。
これには 地域の知識 地域の技術、
そして、グローバル志向の人間には無い”地域への愛”が必要だ。
(←この箇所を読んで、南方熊楠氏を思い起こした。)
★己を知る
国の解決策ではなく、地域社会に目を向け、
みずからの内面を見つめ「己を知る」ことである。
健全な社会とは、「親しき仲にも礼儀あり」の格言どおり、
誰もがお互いの違いを理解し、尊重することのできる社会である。
----ジョン・テイラー・ガット『バカをつくる学校』 訳:高尾菜つこさん
★ ★ ★ ★ ★
寺田寅彦氏 『アインシュタインの教育観』(大正10年)
アインシュタインは次のような事を云っている。
「数学嫌いの原因が果して生徒の無能のみによるか 私にはよく分らない。
むしろ私は多くの場合にその責任が教師の無能にあるような気がする。
大概の教師はいろんな下らない問題を生徒にしかけて時間を空費している。
生徒が知らない事を無理に聞いている。
本当の疑問のしかけ方は、相手が知っているか、
あるいは知り得る事を聞き出す事でなければならない。
大抵の場合に教師は必要な事項はよく理解もし、
また教材として自由にこなすだけの力はある。
しかしそれを面白くする力がない。
これがほとんどいつでも禍(わざわい)の源になるのである。
先生が退屈の呼吸(いき)を吹きかけた日には生徒は窒息してしまう。
教える能力というのは面白く教える事である。
どんな抽象的な教材でも、
それが生徒の心の琴線に共鳴を起させるようにし、
好奇心をいつも活かしておかねばならない。」
★ ★ ★
School literacy scheme attacked Costly literacy schemes in England have not paid off, with children's reading skills barely improved since the 1950s, an independent inquiry suggests. "Five hundred million pounds was spent on the National Literacy Strategy with almost no impact on reading levels. 2007,11,02 BBC
Poor mathematics skills cost British adults more than £800m a year as shoppers struggle with the most basic mental arithmetic and fail to notice when they have been short-changed, according to a survey published today.
It also reveals that one in three workers - 14.6 million people - admit their inadequate numeracy and literacy skills have lost their company money."Around a third of people surveyed said they feel embarrassed, panicked or afraid when their basic skills let them down. This can lead to a loss of confidence, lack of motivation and even depression." 2007,02,20 Guardian
森鴎外 『妄想』 (現代仮名遣い/表現に変更)以下抜粋
生まれてから今日まで、自分は何をしているか。
始終 何物かにムチうたれ 駆(か)られているように
学問 ということに齷齪(あくせく)している。
自分にある働きが出来るように、自分を仕上げるのだと思つている。その目的は 幾分か達せられるかも知れない。
しかし 自分のしている事は、役者が舞台へ出て ある役を勤めているに過ぎないように感じられる。
勤めている役の背後(うしろ)に、別に何物かが存在していなくてはならないように感じられる。
ムチうたれ 駆られてばかりいるために、その何物かが醒覚(せいかく=目をさますこと=覚醒)する暇がないように感じられる。
勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏(かんり=役人)、 勉強する留学生というのが、皆その役である。
赤く黒く塗られている顔を いつか洗って、一寸(ちょっと)舞台から降りて、静かに自分というものを考えて見たい、背後の何物かの面目(めんもく=顔かたち)を覗(のぞ)いて見たいと思いながら、舞台監督の鞭(むち)を背中に受けて、役から役を勤め続けている。
この役が即(すなわ)ち 生 だとは考えられない。
背後にある 或(あ)る物が
真の生ではあるまいかと思われる。