言葉の力

キリスト教の相対性

伝道とはキリストを宣べ伝えることであって、
キリスト教という宗教に改宗させることではありません。
キリストを宣べ伝えることを「キリストの福音を伝え る」
あるいはたんに「福音を伝える」と言うならば、
伝道とは福音を伝えることであって、
異教徒をキリスト教に改宗させることではないと言えます。
キリスト を伝え、
人々をキリスト信仰(御霊による復活者キリストとの交わり)に
導き入れることと、
キリスト教に改宗させることとは別のことです。
この区別は、
キリ スト教という宗教を相対化するところで初めて可能になります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

縄文語--【神々の詩】 姫神

殺されても殺さない

悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。(ローマ書12章1節)

命を奪うことは 究極の悪です。命を救い養うことは 無条件に善です。
命を奪うという究極の悪を正当化する根拠は どこにもありません。

どのような崇高 な目的や理念であれ、
それを実現するために 人を殺してもよいとは言えません。
-- -- --
もしあるとすれば 正当防衛 だけでしょう。自分が殺されないために、
殺そうとして襲う相手を 殺す場合は、正当防衛として処罰されず、
社会も認めています。

しかし、その場合でも
他者の命を奪うという 悪をもって悪に対抗したことになります。

自分も悪に巻き込まれ、悪に征服されたことになります。
-- -- --
聖書は、キリ ストにある者に向かって、悪に征服されることなく、
善をもって悪を征服するように求めています。

同じことをイエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈 れ」と言われました。

敵とか迫害する者には、自分を殺そうとする者も含まれます。
標題のパウロの言葉も、主イエスの言葉もともに、
極言すれば「殺されても 殺さない」という
人間のあり方を求めていることになります。これは善の極地です。

それは人間には不可能だ、
あるいは人間の本性に反するという反対が起こるでしょう。

しかし、キリストの福音は
人間をそのような質の命に生きるよう に変える神の力なのです。

戦争や殺人に血塗られた歴史の中に、
「殺されても殺さない」という原理に生きる人種を生み出してきたのです。

このような人種の存 在が、
人類に「命の大切さ」を真に教えることになるでしょう。

最近フランスは 憲法に 死刑を行わないという規定を入れました。
これは
国家が 「殺されても殺さ ない」という原理に立つことを宣言したものです。


日本も、自国のために他国の人を殺す戦争を放棄した「美しい国」です。
人類の歴史の中に、
絶対無条件に 「殺さない」という原理が確立する日のために、
わたしたちは福音に生き、福音を証言する使命があります

--想起:
トルストイ 『文読む月日』 訳:北御門二郎氏
Leo Tolstoy トルストイ--『愛あるところに 神あり』

★ ★ ★

--想起:
仏教(五戒・十善戒)の視点で道徳を考える

五戒:仏教で、在家の信者が守るべき5つの戒(いまし)め
殺生戒(せっしょうかい)生き物を殺すこと、特に人を殺すことを禁じる戒律
偸盗戒(ちゅうとうかい)盗みを禁制すること
邪淫戒(じゃいんかい)夫婦間以外の性行為、また、してはならない性行為
妄語戒(もうごかい) うそをついてはならない
飲酒戒(おんじゅかい)酒を飲んではならない



仏教というのは結局、「仏になろう」ということ。

だから浄土宗でも、禅でもそう言う。
日蓮も親鸞もそうです。


山を登るのに どこの道を登るかは違うけど、
仏になるということは 共通しているんですよ。

仏になるには五戒、十善戒を守らないかん。

人を殺しちゃいかんとか、女を作っちゃいかんとか
そういう邪淫(じゃいん)、嘘をついちゃいかんとか、

近代は それを抜きにしたのがいけない。
近代の仏教者は それを説いていないんです。

「戒」のトップは 殺生戒(せっしょうかい)です。

殺生戒を説いたら、教育勅語と矛盾するんだ。

教育勅語は「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」だから、
天皇のために戦って人を殺せということだよね。

殺生戒と言ったら軍国主義批判になるんです。

だから矛盾を避けた。


近代仏教衰退の歴史の一つは そこだと思う。

殺生戒律というのを
坊さんが守ってないから というのもあるけど、

仏教の戒律を採ったら
当時の日本政府の道徳と矛盾することになる。

だから仏教徒共通の十善戒を説くのをやめて、
宗派仏教の説だけを説こうとした。

それでは駄目なんです。

仏教徒が誰でも守るべき十善戒を守らねば仏教徒と呼べない。

それを説かなかったら 僧とは言えない。

道徳を説かない。

これが 近代仏教の 大きな特徴です。

---梅原猛氏 『神仏のかたち

私が中学の頃、大東亜戦争すなわち 太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)した。
旧制高等学校の1年生の時、徴兵延期が撤廃(てっぱい)され、
学徒動員が行なわれた。

私はすぐに出陣せず、勤労奉仕に通い、空襲に怯(おび)えつつ、
死の知らせとしか思えない召集令状を待った。

政治家や学者や詩人は、しきりに

スメラミコト(天皇)のおっしゃるように、

お前たちは 人をなるべく多く殺し、そして 死ね」 と語った。

当時、誰一人として、私に
「君 死にたまふことなかれ」と言ってくれる人はいなかった。

日露戦争と太平洋戦争の根本的な違いであったのかもしれないが、

たった一人でもいい

私に はっきりと

「君 死にたまふことなかれ」と言って欲しかった。 

---梅原猛氏 『百人一語

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 
キリストの居ない”キリスト教” 

The Catholic Church is not Christian at all

言葉の力


人間は 結局 言葉です。人間を人間ならしめるものは 言葉です。

人が どのような言葉を見出し、

どのような言葉を 内に抱いて生きる かによって、


その人の 人間としての中身が 決まります。

言葉は決して 空しいものではありません。言葉は 人間を決める力です。

教育問題が 重視されるのは、
人に与える言葉が 人間を決定することを 知っているからです。

福音は、人間が聴く無限に多い言葉の中の一つです。

しかし、この言葉は「救いに至らせる神の力」として 特別です。
それは、この言葉は 神からの言葉 だからです。
それは人間によって語られていますが、
神が遣わされた人によって 世に与えられた神からの言葉です。

それは、
それを聴いて、

その言葉を自分の内 に抱いて生きる人間
(聖書はそれを「信じる者」と言っています)を、造りかえ、変容させ、
別種の命に生きるようにする力です。
それは神の御霊の働きです。

福音は、人間を真に神の子の姿に変容さ せる力として、

それを受ける者が誰であっても 関係なく働きます。

ユダヤ教徒であろうが、ギリシア宗教の徒であろうが、

キリスト教徒であろうが、

所属する宗 教とか文明とは 無関係に働きます。

今わたしたちに必要なものは

ユダヤ教とかキリスト教という宗教ではなく、

神の力としての福音です。真に力のある言葉で す。 

-- 聖書の小窓』 市川喜一氏
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市川喜一さんのHP。トップページに、
「書籍にすれば5000頁を超える福音講話と新約聖書講解のサイト」とある。
実際に販売されている市川さんの書いたものを、
すべてupしているのである。

市川喜一さんは、1930年生まれ。
京都大学を卒業した後、独立伝道者として歩み始め、
その生涯を聖書を読むことに注ぎ込んだ人である。
ギリシア語の釈義、
釈義の歴史の参照(過去の註解書の評価)という基本的な作業において、
これほどに
良心的かつ徹底的であろうと志している人に出会うことは、稀である。
この人は、その全生涯をかけてしてきたことを、
惜しげもなく、すべて公開してしまった。
web上で、何かを学ぶことができるとはどういうことかと問われた場合、
私ならこういうHPと出会えることだと断言する。
---あの人検索スパイシー

☆ ☆ ☆

盲目的に命令に従ってはならない(ドイツ社会)
非人道的な命令については、
それが自分に不利な結果をもたらしても、拒否する義務がある。

☆ ☆ ☆

聖書を改竄していく動き ⇒ 命の軽視

TYNDALE'S NEW TESTAMENT
THE GOSPEL OF ST LUKE CHAPTER THREE
The soldiers likewise demanded of him saying: and what shall we do?
And he said to them: Do violence to no man: neither trouble any man wrongfully: but be content with your wages.

King James Version
Holy Bible ST.LUKE 3:14
And the soldiers likewise demanded of him, saying, And what shall we do? And he said unto them, Do violence to no man, neither accuse any falsely; and be content with your wages.



Bilingual Bible New International Version
LUKE 3:14
Then some soldiers asked him, "And what should we do?"
He replied, "Don't extort money ←NG and don't accuse people falsely--be content with your money."

兵士たちも 彼に尋ねて言った。
「私たちは どうすればよいのでしょうか。」
ヨハネは言った。
誰からも 力ずくで金をゆすったり、←NG
無実の者を責めたりしてはいけません。
自分の給料で 満足しなさい。」

非常に重要な 言葉の力
誰に対しても、(精神的・肉体的)暴力を振るうな
Do violence to no man

”聖なる書”が出回っていない

∵ JesusDrivenLife.org

Who publishes the NIV and NASB and their sibling version? It's Zondervan, owned by Harper Collins Publishers, which is owned by News Corp, which in turn is owned by Rupert Murdoch, the Catholic media mogul who is very close to the Vatican.

Jeff BuckleyとVoltaire
の共通点=
ヴォルテール 『道徳は一つ』

History of Catholic Aggressiveness in Japan
By Avro Manhattan "Vietnam why did we go?"
http://www.reformation.org/vietnam.html#Contents

縄文語--【神々の詩】 姫神

t4454



私の名前はマポ
私は赤い服が好きです
弟が泣くので 彼をだっこします

私の名前はマポ
私には祖母、両親、兄と弟がいます

 ★   

馬野周二氏 『壊される日本』 心の文明の危機 以下抜粋


日本人は 日本語で育つと、すべて自らが気付かないうちに
神道の徒になっている。【神道】というのは、【宗教ではない】。

宗教】というのは、中東において古い昔に発生したものであり、
人間を超越した【絶対的な存在である神を信仰】するものである。

ところが、日本においては そのような意味での【】は存在しない。

日本の【】というのは、
人間の死後の霊を祀って言う言葉】なのである。

霊を祀る=霊をまつる=霊をなぐさめ、祈願する

天照神は 男性である。
崇敬すべき慈愛あふれるばかりの人格を持っておられ
生身の人間であられた天照神の死後の霊を、
超越神のようにしてしまったのが 古事記、日本書紀の大神である。
女神にしてしまったのは、聖徳太子関係者の知恵であろう。

以来、今日まで 
日本人は この古き時代の天照神の真正の性格を 忘却させられ、
西方伝播の 異神によって 変えられてしまったのである。
その元凶は 聖徳太子と思われる。

それ以後、本来 日本にはなかった【】の概念が入ってきて、
これが【宗教】として 日本に根付くことになる。

   

西洋一神】というのは、ヘブライ、イスラエル、ユダヤ、
あるいは今日では もう歴史に残っていない亡国の民族の
怨念の塊】が【】となって、
外敵から彼らを守る 霊的な集積物だと私は考えている。

西洋の歴史を見ると、
この【怨念の一神】の存在を理解しないかぎり

まったく解けないところがあるように思われる。

聖徳太子は 古代以来の純然たる日本人から離れて
一神教に囚われた人物であり、
その後の日本を根底的に変えてしまった人物なのである。
太子は、神代文字を湮滅(いんめつ=跡形も無く消)させ
神代以来の宮中史書の廃棄に手を貸したのだ。
歴史の抹殺である。

ここで日本は、その教学の中心において
まったく変質したと言えよう。

  

明治維新期以後の 何々神道(教派神道)は
すべて非日本的なものを含み、
西方の超越神の汚染を受けたものであり、
日本神道の本質からは 外れたものである。

こういう事情は 仏教においても大同小異であり、
仏教全体の考え方は、古代日本人の清明なる精神に比すると、
霊性の夢幻的楼閣である と見なければならない。

聖徳太子の時代の 一神教の影響は
単に 思想上の影響に留(とど)まり、
天照大神を 絶対的超越神の位置に置きはしたものの、
神道そのものを 根本的に変えたわけではない。

ところが、ここで入ってきた別の宗教 すなわち仏教は、
聖徳太子の非常な後援のもとに、日本の朝廷、
それから千年後の江戸時代には 
一般大衆にまで広く公布するに至った。

この仏教が 日本の民衆の底辺にまで浸透したことは、
すなわち 仏教が本来の仏教としての姿を変えてしまい、
神道の一派となったことを意味しているのである。

  

日本古来の根源的思想は、
人間の霊 つまり魂魄(タマシヒ)の存在と 
その輪廻転生に依拠する。

輪廻転生する魂魄は、
その現世に在世した時代の経験ないし見聞を、
その魂魄に記憶して 霊界に去り、
そしてある時期ののちに 現界に転生してくるもののように思われる。

イオマンテ(魂をあの世へ送る) 怨霊鎮めの祭り

梅原猛氏古代幻視以下抜粋

】になるには二つの条件が必要である。

一つは、その人が生前偉大な能力を持っていること、

すなわち身分が高いとか、武力に秀(ひい)でるとか、
文才(ぶんさい)に恵まれるとかである。

もう一つは、その人が刑死とか流罪(るざい)とかで、
余執(よしゅう=心に残って離れない執念)
妄執(もうしゅう=心の迷い)が残る形で死ぬことである。


『日本後紀』は、桓武天皇の病気に際して、
しきりに早良親王の怨霊の祟(たた)りがささやかれ、
早良親王の怨霊を鎮魂するために、
さまざまなことが行なわれたことを伝えている。

-----

この怨霊(おんりょう)というのは、
世界的に普遍的な現象ではなく、きわめて日本的な現象である。

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アイヌ文化は、日本の基層文化である縄文文化の面影を、
弥生文化の伝来によって大きくその性格を変えた日本の文化より、
はるかに色濃く残していると私は考えている。

アイヌの人々の墓標には、三種類ある。


一つは男、一つは女、
もう一つが”変死者”である。


変死者は、特別に手厚く葬(ほうむ)られ、
葬儀の仕方も墓場を別になることが多い。

なぜ”変死者”はそんなに手厚く葬られるのか?

アイヌの人は、人が死ねば その魂は必ずあの世へ行くと信じている。

あの世は天の一角にあり、一足先にこの世を去ったご先祖様が、
この世と同じような家族単位の生活を営(いとな)んで暮らしている。

人が死ねば、必ずその魂はあの世へいくが、

変死者には、この世に余執、妄執が残っているので、
たやすくあの世へ行けない。
それで、彼はとりわけ手厚く葬られる。

アイヌの人にとって、もっとも重要な祭りはイオマンテの祭りであるが、

イオマンテの祭りも一種の熊の怨霊鎮めの祭りであると言えよう。

イオマンテのイは「それを」と言う事であり、
ここでは「熊の魂」を指すが、オマンテは「送る」⇒
イオマンテは「熊の魂をあの世へ送る」ことを意味する。

アイヌの世界観では、

古代日本のそれと同じく、

人間ばかりか、すべての生きとし生けるものの魂は、

この世とあの世の間を
絶えざる循環(じゅんかん)の旅をするという考えがある。

普通、山にいる熊は、自然に天寿を全(まっと)うして死ぬが、

そういう熊は何のさわりもなく、無事あの世へ行くことが出来る。

しかし、人間に殺された熊は、
そのままでは人間に対する恨(うら)みや執着(しゅうちゃく)が残り、
容易にあの世へ行けない。

それで、丁重(ていちょう)にして
厳格(げんかく)な儀式(ぎしき)で熊の魂を慰(なぐさ)め、
それをあの世へ送らねばならない。

ただあの世へ送るだけでは不十分である。


出来るだけ良い思い出を持ってあの世へ行ってもらわねばならない。

なぜなら、その熊の魂は、また新しいミアンゲを持って、
人間の世界に帰って来てくれなければならないからである。

ミアンゲとはアイヌ語で「身を提供する」意味。

みやげ」という言葉に通じる。

人間から土産(みやげ)をたくさん貰(もら)って、

人間に対する良い思い出を持ってあの世へ帰ると、
熊は人間から貰った酒と肴(さかな)で宴会を開く。

「人間の扱いはどうだった?」
「あぁ とても良かった」
「それじゃ、俺も来年行くか」となって、
翌年は熊がどっさり獲(と)れるというわけである。

これは言わば豊漁(ほうりょう)祭、豊年(ほうねん)祭でもある。

イオマンテの祭りは、この世からあの世へ熊の魂を送る祭りであるが、

それはまた 再び新しいミアンゲを持って

この世へ帰ることを願う祭りなのである。

アイヌ文化の、おそらくは縄文文化のもっとも根本的な世界観は
魂の永久の循環(じゅんかん)」という思想であり、

人間の場合でも、熊の場合でも、

変死者はこの魂の循環を妨(さまた)げるものなので、
循環を可能にするように、
その祭りは出来るだけ厳格に、かつ丁重に行なわれねばならない。

循環という原理によって、
すべての天体運動も人間生活も成り立っているのである。

怨霊はこのような魂の循環運動を妨げるものなのである。

怨霊となるべき人間や熊の葬儀を出来るだけ手厚く行ない、
その魂を無事あの世へ送って、
永久の循環という宇宙の大原則」を混乱させないことが必要である。

怨霊鎮めの祭りが日本で盛んなのは、

日本にはまだそういう超古代的、

縄文的な世界観が残っているからではないかと私は思う。

    

日本の宗教の「もと」
神も仏も無い【教え】
手塚治虫【火の鳥】太陽編--2009
アニミズムとテクノロジーが共存する魅力にドキッ!

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世論が「厳罰化」を望む中で.. 監視社会の到来

近代日本植民地戦争のため、
「御霊信仰」の伝統を捨て、天皇政府に味方した軍人だけを
「英霊」として祀ってしまった。
日本の伝統(=怨念を持ったまま亡くなった
反政府勢力の人々の御霊を祀り 

鎮魂し、どの魂も大切に扱った)を捨て、 
異質な精神を接木したことで、
「危うい方向へ進む抑止力」を失った。
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江戸社会を「陋習ろうしゅう」
(=いやしい習慣 わるい習慣)とする欧米の差別思想に対し、
旧幕府はその”未開観”を受け入れなかった。
しかし、新政府は、欧米中心の「文明と未開」の見方に 
みずから同調する。新政府は攘夷事件の自国犯人に対して、
旧幕時代とちがって、
欧米の要求をさきどりした苛酷な処刑をすすんで行い
欧米の文明に同化する(文明をとり入れる)道を歩みはじめた。
井上勝生氏 『幕末・維新

    

聖書と 通じる何か

市川喜一氏 『聖書の小窓』 以下抜粋

殺されても殺さない 

悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。(ローマ書12章1節)
命を奪うことは究極の悪です。命を救い養うことは無条件に善です。
命を奪うという究極の悪を正当化する根拠はどこにもありません。
どのような崇高 な目的や理念であれ、
それを実現するために人を殺してもよいとは言えません。

もしあるとすれば正当防衛だけでしょう。自分が殺されないために、
殺そうとし て襲う相手を殺す場合は、正当防衛として処罰されず、
社会も認めています。

しかし、その場合でも
他者の命を奪うという悪をもって悪に対抗したことになります。
自分も悪に巻き込まれ、悪に征服されたことになります。

聖書は、キリ ストにある者に向かって、悪に征服されることなく、
善をもって悪を征服するように求めています。

同じことをイエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈 れ」と言われました。

敵とか迫害する者には、自分を殺そうとする者も含まれます。
標題のパウロの言葉も、主イエスの言葉もともに、
極言すれば「殺されても 殺さない」という
人間のあり方を求めていることになります。これは善の極地です。

それは人間には不可能だ、
あるいは人間の本性に反するという反対が起こるでしょう。

しかし、キリストの福音は
人間をそのような質の命に生きるよう に変える神の力なのです。

戦争や殺人に血塗られた歴史の中に、
「殺されても殺さない」という原理に生きる人種を生み出してきたのです。

このような人種の存 在が、
人類に「命の大切さ」を真に教えることになるでしょう。

最近フランスは憲法に死刑を行わないという規定を入れました。
これは
国家が「殺されても殺さ ない」という原理に立つことを宣言したものです。


日本も、自国のために他国の人を殺す戦争を放棄した「美しい国」です。
人類の歴史の中に、
絶対無条件に 「殺さない」という原理が確立する日のために、
わたしたちは福音に生き、福音を証言する使命があります
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言葉の力

トルストイ--生きる光を見失って