縄文語--【神々の詩】 姫神
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私の名前はマポ
私は赤い服が好きです
弟が泣くので 彼をだっこします
私の名前はマポ
私には祖母、両親、兄と弟がいます
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馬野周二氏 『壊される日本』 心の文明の危機 以下抜粋
日本人は 日本語で育つと、すべて自らが気付かないうちに
神道の徒になっている。【神道】というのは、【宗教ではない】。
【宗教】というのは、中東において古い昔に発生したものであり、
人間を超越した【絶対的な存在である神を信仰】するものである。
ところが、日本においては そのような意味での【神】は存在しない。
日本の【神】というのは、
【人間の死後の霊を祀って言う言葉】なのである。
霊を祀る=霊をまつる=霊をなぐさめ、祈願する
天照神は 男性である。
崇敬すべき慈愛あふれるばかりの人格を持っておられ
生身の人間であられた天照神の死後の霊を、
超越神のようにしてしまったのが 古事記、日本書紀の大神である。
女神にしてしまったのは、聖徳太子関係者の知恵であろう。
以来、今日まで
日本人は この古き時代の天照神の真正の性格を 忘却させられ、
西方伝播の 異神によって 変えられてしまったのである。
その元凶は 聖徳太子と思われる。
それ以後、本来 日本にはなかった【神】の概念が入ってきて、
これが【宗教】として 日本に根付くことになる。
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【西洋一神】というのは、ヘブライ、イスラエル、ユダヤ、
あるいは今日では もう歴史に残っていない亡国の民族の
【怨念の塊】が【神】となって、
【外敵から彼らを守る 霊的な集積物】だと私は考えている。
西洋の歴史を見ると、
この【怨念の一神】の存在を理解しないかぎり
まったく解けないところがあるように思われる。
聖徳太子は 古代以来の純然たる日本人から離れて
一神教に囚われた人物であり、
その後の日本を根底的に変えてしまった人物なのである。
太子は、神代文字を湮滅(いんめつ=跡形も無く消)させ
神代以来の宮中史書の廃棄に手を貸したのだ。
歴史の抹殺である。
ここで日本は、その教学の中心において
まったく変質したと言えよう。
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明治維新期以後の 何々神道(教派神道)は
すべて非日本的なものを含み、
西方の超越神の汚染を受けたものであり、
日本神道の本質からは 外れたものである。
こういう事情は 仏教においても大同小異であり、
仏教全体の考え方は、古代日本人の清明なる精神に比すると、
霊性の夢幻的楼閣である と見なければならない。
聖徳太子の時代の 一神教の影響は
単に 思想上の影響に留(とど)まり、
天照大神を 絶対的超越神の位置に置きはしたものの、
神道そのものを 根本的に変えたわけではない。
ところが、ここで入ってきた別の宗教 すなわち仏教は、
聖徳太子の非常な後援のもとに、日本の朝廷、
それから千年後の江戸時代には
一般大衆にまで広く公布するに至った。
この仏教が 日本の民衆の底辺にまで浸透したことは、
すなわち 仏教が本来の仏教としての姿を変えてしまい、
神道の一派となったことを意味しているのである。
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日本古来の根源的思想は、
人間の霊 つまり魂魄(タマシヒ)の存在と
その輪廻転生に依拠する。
輪廻転生する魂魄は、
その現世に在世した時代の経験ないし見聞を、
その魂魄に記憶して 霊界に去り、
そしてある時期ののちに 現界に転生してくるもののように思われる。
イオマンテ(魂をあの世へ送る) 怨霊鎮めの祭り
梅原猛氏 『古代幻視』 以下抜粋
【神】になるには二つの条件が必要である。
一つは、その人が生前偉大な能力を持っていること、
すなわち身分が高いとか、武力に秀(ひい)でるとか、
文才(ぶんさい)に恵まれるとかである。
もう一つは、その人が刑死とか流罪(るざい)とかで、
余執(よしゅう=心に残って離れない執念)
妄執(もうしゅう=心の迷い)が残る形で死ぬことである。
『日本後紀』は、桓武天皇の病気に際して、
しきりに早良親王の怨霊の祟(たた)りがささやかれ、
早良親王の怨霊を鎮魂するために、
さまざまなことが行なわれたことを伝えている。
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この怨霊(おんりょう)というのは、
世界的に普遍的な現象ではなく、きわめて日本的な現象である。
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アイヌ文化は、日本の基層文化である縄文文化の面影を、
弥生文化の伝来によって大きくその性格を変えた日本の文化より、
はるかに色濃く残していると私は考えている。
アイヌの人々の墓標には、三種類ある。
一つは男、一つは女、
もう一つが”変死者”である。
変死者は、特別に手厚く葬(ほうむ)られ、
葬儀の仕方も墓場を別になることが多い。
なぜ”変死者”はそんなに手厚く葬られるのか?
アイヌの人は、人が死ねば その魂は必ずあの世へ行くと信じている。
あの世は天の一角にあり、一足先にこの世を去ったご先祖様が、
この世と同じような家族単位の生活を営(いとな)んで暮らしている。
人が死ねば、必ずその魂はあの世へいくが、
変死者には、この世に余執、妄執が残っているので、
たやすくあの世へ行けない。
それで、彼はとりわけ手厚く葬られる。
アイヌの人にとって、もっとも重要な祭りはイオマンテの祭りであるが、
イオマンテの祭りも一種の熊の怨霊鎮めの祭りであると言えよう。
イオマンテのイは「それを」と言う事であり、
ここでは「熊の魂」を指すが、オマンテは「送る」⇒
イオマンテは「熊の魂をあの世へ送る」ことを意味する。
アイヌの世界観では、
古代日本のそれと同じく、
人間ばかりか、すべての生きとし生けるものの魂は、
この世とあの世の間を
絶えざる循環(じゅんかん)の旅をするという考えがある。
普通、山にいる熊は、自然に天寿を全(まっと)うして死ぬが、
そういう熊は何のさわりもなく、無事あの世へ行くことが出来る。
しかし、人間に殺された熊は、
そのままでは人間に対する恨(うら)みや執着(しゅうちゃく)が残り、
容易にあの世へ行けない。
それで、丁重(ていちょう)にして
厳格(げんかく)な儀式(ぎしき)で熊の魂を慰(なぐさ)め、
それをあの世へ送らねばならない。
ただあの世へ送るだけでは不十分である。
出来るだけ良い思い出を持ってあの世へ行ってもらわねばならない。
なぜなら、その熊の魂は、また新しいミアンゲを持って、
人間の世界に帰って来てくれなければならないからである。
ミアンゲとはアイヌ語で「身を提供する」意味。
「みやげ」という言葉に通じる。
人間から土産(みやげ)をたくさん貰(もら)って、
人間に対する良い思い出を持ってあの世へ帰ると、
熊は人間から貰った酒と肴(さかな)で宴会を開く。
「人間の扱いはどうだった?」
「あぁ とても良かった」
「それじゃ、俺も来年行くか」となって、
翌年は熊がどっさり獲(と)れるというわけである。
これは言わば豊漁(ほうりょう)祭、豊年(ほうねん)祭でもある。
イオマンテの祭りは、この世からあの世へ熊の魂を送る祭りであるが、
それはまた 再び新しいミアンゲを持って
この世へ帰ることを願う祭りなのである。
アイヌ文化の、おそらくは縄文文化のもっとも根本的な世界観は
「魂の永久の循環(じゅんかん)」という思想であり、
人間の場合でも、熊の場合でも、
変死者はこの魂の循環を妨(さまた)げるものなので、
循環を可能にするように、
その祭りは出来るだけ厳格に、かつ丁重に行なわれねばならない。
循環という原理によって、
すべての天体運動も人間生活も成り立っているのである。
怨霊はこのような魂の循環運動を妨げるものなのである。
怨霊となるべき人間や熊の葬儀を出来るだけ手厚く行ない、
その魂を無事あの世へ送って、
「永久の循環という宇宙の大原則」を混乱させないことが必要である。
怨霊鎮めの祭りが日本で盛んなのは、
日本にはまだそういう超古代的、
縄文的な世界観が残っているからではないかと私は思う。
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日本の宗教の「もと」
神も仏も無い【教え】
手塚治虫【火の鳥】太陽編--2009
アニミズムとテクノロジーが共存する魅力にドキッ!
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世論が「厳罰化」を望む中で.. 監視社会の到来
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近代日本は植民地戦争のため、
「御霊信仰」の伝統を捨て、天皇政府に味方した軍人だけを
「英霊」として祀ってしまった。
日本の伝統(=怨念を持ったまま亡くなった
反政府勢力の人々の御霊を祀り
鎮魂し、どの魂も大切に扱った)を捨て、
異質な精神を接木したことで、
「危うい方向へ進む抑止力」を失った。
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江戸社会を「陋習ろうしゅう」
(=いやしい習慣 わるい習慣)とする欧米の差別思想に対し、
旧幕府はその”未開観”を受け入れなかった。
しかし、新政府は、欧米中心の「文明と未開」の見方に
みずから同調する。新政府は攘夷事件の自国犯人に対して、
旧幕時代とちがって、
欧米の要求をさきどりした苛酷な処刑をすすんで行い、
欧米の文明に同化する(文明をとり入れる)道を歩みはじめた。
井上勝生氏 『幕末・維新』
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聖書と 通じる何か
市川喜一氏 『聖書の小窓』 以下抜粋
殺されても殺さない
悪に征服されることなく、善をもって悪を征服しなさい。(ローマ書12章1節)
命を奪うことは究極の悪です。命を救い養うことは無条件に善です。
命を奪うという究極の悪を正当化する根拠はどこにもありません。
どのような崇高 な目的や理念であれ、
それを実現するために人を殺してもよいとは言えません。
もしあるとすれば正当防衛だけでしょう。自分が殺されないために、
殺そうとし て襲う相手を殺す場合は、正当防衛として処罰されず、
社会も認めています。
しかし、その場合でも
他者の命を奪うという悪をもって悪に対抗したことになります。
自分も悪に巻き込まれ、悪に征服されたことになります。
聖書は、キリ ストにある者に向かって、悪に征服されることなく、
善をもって悪を征服するように求めています。
同じことをイエスは、「敵を愛し、迫害する者のために祈 れ」と言われました。
敵とか迫害する者には、自分を殺そうとする者も含まれます。
標題のパウロの言葉も、主イエスの言葉もともに、
極言すれば「殺されても 殺さない」という
人間のあり方を求めていることになります。これは善の極地です。
それは人間には不可能だ、
あるいは人間の本性に反するという反対が起こるでしょう。
しかし、キリストの福音は
人間をそのような質の命に生きるよう に変える神の力なのです。
戦争や殺人に血塗られた歴史の中に、
「殺されても殺さない」という原理に生きる人種を生み出してきたのです。
このような人種の存 在が、
人類に「命の大切さ」を真に教えることになるでしょう。
最近フランスは憲法に死刑を行わないという規定を入れました。
これは
国家が「殺されても殺さ ない」という原理に立つことを宣言したものです。
日本も、自国のために他国の人を殺す戦争を放棄した「美しい国」です。
人類の歴史の中に、
絶対無条件に 「殺さない」という原理が確立する日のために、
わたしたちは福音に生き、福音を証言する使命があります
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言葉の力
トルストイ--生きる光を見失って