イオマンテ(魂をあの世へ送る) 怨霊鎮めの祭り
梅原猛氏 『古代幻視』 以下抜粋
人間が神になる。
一神教の支配する西洋では、そういうことはありえず、
そういう願望を起こす人はまずない。
神は絶対であり、人間は神の創造物にすぎない。
神と人間の間には容易に埋めることの出来ない溝(みぞ)がある。
ところが、一神教より多神論が支配する国では、
人間と神あるいは仏との距離は、一神教の国より はるかに近い。
日本では、死ねば人はみな仏になり、戒名(かいみょう)を貰(もら)う。
戒名とは仏としての名前である。
また 死のことを「お陀仏(だぶつ)した」「成仏(じょうぶつ)した」とも言う。
神になるのは仏になるよりは難(むずか)しいが、
それでもそんなに難しいことではない。
神になるには二つの条件が必要である。
一つは、その人が生前偉大な能力を持っていること、
すなわち身分が高いとか、武力に秀(ひい)でるとか、
文才(ぶんさい)に恵まれるとかである。
もう一つは、その人が刑死とか流罪(るざい)とかで、
余執(よしゅう=心に残って離れない執念)
妄執(もうしゅう=心の迷い)が残る形で死ぬことである。
この二つの条件のうち、後者の条件のほうが、より重要であることは、
桓武天皇(かんむてんのう)と早良親王(さわらしんのう)の例でわかる。
京都に都を定め、
多くの政治的事績を残した偉大な桓武天皇が
神として祀られず、
ほとんど政治的事績らしいものを残さずに死んだ早良親王が
神として祀られた。
それは、桓武天皇は天寿を全(まっと)うして死んだのに、
早良親王は、おそらく無実と思われる政治的陰謀(いんぼう)によって
不慮(ふりょ)の死を遂げたからである。
『日本後紀』は、桓武天皇の病気に際して、
しきりに早良親王の怨霊の祟(たた)りがささやかれ、
早良親王の怨霊を鎮魂するために、
さまざまなことが行なわれたことを伝えている。
★ ★ ★
しかし、この怨霊(おんりょう)というのは、
世界的に普遍的な現象ではなく、きわめて日本的な現象である。
西欧、あるいは中国において、
日本ほど重要な社会現象にならない。
西欧において、ハムレットなどにも父王の亡霊が出現する話があるが、
それが神に祀られるというようなことは無い。
中国において屈原とか関羽とかは神に祀(まつ)られるけれど、
日本ほど怨霊の力は強くない。
どうして日本において怨霊がこんなにしばしばあらわれ、
そしてその力が強いのか。それを考えるとしよう。
★ ★ ★
アイヌ文化は、日本の基層文化である縄文文化の面影を、
弥生文化の伝来によって大きくその性格を変えた日本の文化より、
はるかに色濃く残していると私は考えている。
アイヌの人々の墓標には、三種類ある。
一つは男、一つは女、
もう一つが”変死者”である。
変死者は、特別に手厚く葬(ほうむ)られ、
葬儀の仕方も墓場を別になることが多い。
なぜ”変死者”はそんなに手厚く葬られるのか?
アイヌの人は、人が死ねば その魂は必ずあの世へ行くと信じている。
あの世は天の一角にあり、一足先にこの世を去ったご先祖様が、
この世と同じような家族単位の生活を営(いとな)んで暮らしている。
人が死ねば、必ずその魂はあの世へいくが、
変死者には、この世に余執、妄執が残っているので、
たやすくあの世へ行けない。
それで、彼はとりわけ手厚く葬られる。
アイヌの人にとって、もっとも重要な祭りはイオマンテの祭りであるが、
イオマンテの祭りも一種の熊の怨霊鎮めの祭りであると言えよう。
イオマンテのイは「それを」と言う事であり、
ここでは「熊の魂」を指すが、オマンテは「送る」⇒
イオマンテは「熊の魂をあの世へ送る」ことを意味する。
アイヌの世界観では、
古代日本のそれと同じく、
人間ばかりか、すべての生きとし生けるものの魂は、
この世とあの世の間を
絶えざる循環(じゅんかん)の旅をするという考えがある。
普通、山にいる熊は、自然に天寿を全(まっと)うして死ぬが、
そういう熊は何のさわりもなく、無事あの世へ行くことが出来る。
しかし、人間に殺された熊は、
そのままでは人間に対する恨(うら)みや執着(しゅうちゃく)が残り、
容易にあの世へ行けない。
それで、丁重(ていちょう)にして
厳格(げんかく)な儀式(ぎしき)で熊の魂を慰(なぐさ)め、
それをあの世へ送らねばならない。
ただあの世へ送るだけでは不十分である。
出来るだけ良い思い出を持ってあの世へ行ってもらわねばならない。
なぜなら、その熊の魂は、また新しいミアンゲを持って、
人間の世界に帰って来てくれなければならないからである。
ミアンゲとはアイヌ語で「身を提供する」意味。
「みやげ」という言葉に通じる。
人間から土産(みやげ)をたくさん貰(もら)って、
人間に対する良い思い出を持ってあの世へ帰ると、
熊は人間から貰った酒と肴(さかな)で宴会を開く。
「人間の扱いはどうだった?」
「あぁ とても良かった」
「それじゃ、俺も来年行くか」となって、
翌年は熊がどっさり獲(と)れるというわけである。
これは言わば豊漁(ほうりょう)祭、豊年(ほうねん)祭でもある。
イオマンテの祭りは、この世からあの世へ熊の魂を送る祭りであるが、
それはまた 再び新しいミアンゲを持って
この世へ帰ることを願う祭りなのである。
アイヌ文化の、おそらくは縄文文化のもっとも根本的な世界観は
「魂の永久の循環(じゅんかん)」という思想であり、
人間の場合でも、熊の場合でも、
変死者はこの魂の循環を妨(さまた)げるものなので、
循環を可能にするように、
その祭りは出来るだけ厳格に、かつ丁重に行なわれねばならない。
循環という原理によって、
すべての天体運動も人間生活も成り立っているのである。
怨霊はこのような魂の循環運動を妨げるものなのである。
怨霊となるべき人間や熊の葬儀を出来るだけ手厚く行ない、
その魂を無事あの世へ送って、
「永久の循環という宇宙の大原則」を混乱させないことが必要である。
怨霊鎮めの祭りが日本で盛んなのは、日本にはまだそういう超古代的、
縄文的な世界観が残っているからではないかと私は思う。
★ ★ ★
藤本英夫氏 『知里真志保』
知里真志保は『アイ ヌ語入門』を出版した。
この本の中で、バチェラーをはじめ、
高名な、その道の権威者と評のあ るアイヌ研究者たち数人を、
こっぴどくやっつけ、罵倒している。
この本の戦闘的な激しさについては、
大江健三郎が『文芸』(昭和42年3月号)で、
「名著発掘 アイヌ語入門」と題して感想をのべている。
「知里博士が戦いをいどみ、絶対に全滅させる敵は、
一般的には良きアイヌ理解者と目されている学者たちである。
博士はそうしたアイヌ理解者の精神の奥底にアイヌへの見くびりや、
安易な手をぬいた研究態度を見つ け出して、それを叩きつける。
しかもその怒りの声の背後からは切実な悲しみの声も聞こえてきて...」
私は、この大江の見方は正しく的を射ていると思う。
知里「僕の背後には、一万数千のアイヌがいる。
僕は、その一万数千のアイヌのためにも頭をさげることができないのだ」
以上 『ドキュメント日本人2 悲劇の先駆者』から抜粋
知 里真志保(ちり・ましほ/ 1909-1961):
北海道登 別の名門アイヌに生まれる。ずばぬけた語学力に恵まれ、被征服民族アイヌの生活を見て育った彼は、アイヌ研究家、アイヌ語学者となった。一高、東大、大学 院というエリートコースを歩みながら 彼の研究は、従来の、 アイヌへの同情や、べっ視に立脚した研究を鋭く告発した。彼の研究には、被征服民族の、彼自身の悲痛な叫びが核となって貫いている。
★ ★ ★ ★ ★