ヘドロで泥だらけの「クサレ神」を救う
鎌田東二氏 『日本の精神性と宗教』 以下抜粋
となりのトトロの場合の子供たちは、元気一杯で
周りの自然とか、人間とか、いろいろなものに興味津々だった。
新しい環境は一体どんなものか、目を見開き、輝かせて生きている。
ところが、千尋は 窓からの風景を見ようとしない。
注目したいのは、神様が捨てられている風景が出てくる点。
宅地造成されて、昔トトロが住んでいたような木は、
ボロボロになって生命力を失っている。
鳥居もおんぼろで傾いている。
明治政府が神仏分離や神社合祀をやろうとした時代、
政府は、敬神思想を高めようという国民運動を展開した。
その政策の一つとして、神仏分離と神社合祀を行政的に進めた。
南方熊楠は、政府の方向性に対し、
それはかえって敬神思想をなくしていくことになるという批判的な観点から、
猛烈な神社合祀の反対運動を展開していく。
「神」は、例えば森なら森というところに鎮まっている 森の「ヌシ」である。
森の木を切って駐車場にして、
木を売ってしまうというようなことをしていたら、
人心は荒廃し、人々の融和を妨げ、地方を衰微させていく。
国民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害して、愛国心を損ない、
土地の治安や利益に大きな害が起こってくる。
そして、歴史的に伝承された史跡や古伝が全部なくなってしまい、
天然記念物も亡滅していく
と指摘した。
明治政府的な方向性で、明治以降、戦後60年まできた末の、
一つの典型的な風景が
『千と千尋の神隠し』に描かれた捨てられた神々の家だ。
もっと端的に言えば、
神の家が重要なのではなくて、
その周りにある森とか、
朽ち果てた鳥居が立てかけてあったような勢いをなくした木、
そういう木や森としてあらわれる力の源に対する畏敬感覚が重要なのだ。
そして今日、
その畏怖・畏敬の存在感覚がどんどん失われてきて、
怖いもの知らずの世の中になっている。
千尋が「あの家みたいなの、何?」と聞くと、
それは「神様のお家」だとお母さんが答える。
石の祠(ほこら)だが、それが一体何であるかということ自体、
子供にはわかっていない。
それはどうでもいいものとして、打ち捨てられている。
神々の家は、もう無い。
神々の家は、本来は森であったわけだが、
森が宅地造成されて、人間が神様のお住まいよりも立派な家を建てて、
山の上のほうに住んでいる。
山の中腹のあたりに神様の捨てられた家がある。
これは非常に象徴的な光景だ。
千尋の両親は、食べ物屋に入って、
店の人に断りもせずに食べ物をどんどん食べて、豚になってしまう。
この部分に、
現代の私達の、浅ましい、貪欲な姿が痛烈に描かれている。
となりのトトロは、昭和20~30年代の引越し。
都心から郊外へ引っ越していくと、田園風景が広がっていて、
こんもりとした森がある。
引っ越してきた考古学者一家は、その森に挨拶に行く。
その森には、巨大なクスノキがあって、
しめ縄が張ってある。
その中に、トトロという不思議な謎の生き物が住んでいた。
その生き物は、お父さんの言葉を使って言えば、「森の主」である。
そのヌシに会えたことがとても運が良かったと、
お父さんは娘のメイに諭す。
ヌシの棲む森の感覚は、伝承文化の一番根本にあったものだと思う。
~心を清澄にする場~神社 神林 池泉
神道という宗教文化の核には、自然信仰(自然崇拝)があり、
その自然の生成する神聖エネルギーを
「ちはやぶる神」とか「八百万(やおよろず)の神」として
尊崇(そんすう)してきた。
古来、神威(しんい)、神格、霊性を表す言葉には、多様な語があった。
それらを総称する語として「神」という語が生まれ、
それを祀(まつ)り 奉(ほう)じる道としての 「神道」という語が生まれた。