東山魁夷 自然-【巡り合い】-モノ--大切にする心
東山魁夷(ひがしやま かいい)氏
『東山魁夷 第二巻 風景遍歴二』以下抜粋
私が 絵を描く ということは --祈り-- だと思うのです。
祈り というものは
上手に祈る、下手に祈る ということではなくて
心がこもるか こもらないか だと思うのです。
★ ★ ★
私は 私の意志で 生まれてきたわけではなく
死ぬ ということも 私の意志ではないだろう。
こうして、今 生きている というのも
はっきりと意志が働いて 生きているわけでもないようだ。
したがって 絵を描く ということも---
私は 生かされている。
野の草と 同じである。
路傍(ろぼう=みちばた)の小石とも 同じである。
★ ★ ★
花が 永久に咲き
毎晩 満月が空に昇り
私も 永久にこの地上に生きているのなら
これらの巡り合いには
なんの感動も 起こらないでしょう。
花を 美しい と思う心の底には
お互いの生命をいつくしみ
地上での 短い存在の間に
巡り合った喜びが 感じられているに違いありません。
巡り合いを大切にすることの根底には
人生を 旅 と見る心が在ると思われます。
時が過ぎ去って行くのではなく
私たち この世に在る 全(すべ)てのものが
過ぎ去ってゆく。
「無常」という宿命の中に
私たち すべてが生かされているのですから
今 このひと時を 同時に生きている
--という連帯感が 起きるのでは ないでしょうか。
その時
お互いの心が通い合い 愛と美も生まれる ということになります。
このような 無常観は-- 生滅変化し 流転すること--
これこそが、生きている証拠であると私は考えているのです。
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日本列島は 程よい緯度に位置し
その南北に 長い地形を 背骨のように山脈が縦走していて、
樹木の種類も多く よく繁茂(はんも=草木が盛んに生い茂る)しています。
そのため 風景は 多彩な面を持っているのです。
また、湿潤(しつじゅん=水分が多く しめっていること)な気候は
霧(きり)や霞(かすみ)を伴(ともな)い易(やす)く
華麗(かれい)と幽玄(ゆうげん=物事の趣が奥深くはかりしれない)という
対蹠(たいせき=二つの物事が正反対の関係にあるさま)的な景観を
示す場合も 少なくありません。
日本は 自然の風景美に恵まれた国であります。
★一年を通じての 季節の推移が
変化を伴って 自然の上に鮮明に現れることは
天地の生命を 豊かに反映している証(あかし)であり、
それを敏感に採り入れて
日常の生活の流れの上に 活気を与える方便(=手段)
としているのは
日本民族の 遠い昔からの生活の知恵であります。
それはまた
日本の美の特色を創り出した要素の一つでもあると思われます★
私達は この日本の自然を 大切にする心を
いつまでも 失いたくないものです。
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★ひろさちや氏 『やまと教』 以下抜粋
この宇宙には
はっきりと 目には見えませんが
「気」が 充満しています
そして 私たちの体の中にも 「気」があるのです
外にある「気」と 内にある「気」が 上手く共振すれば
私たちは 元気になります やる気がおきるわけです
その「気」が「神」なんです。
この宇宙に充満している「気」が凝縮されたものが「モノ」です。
伝統行事に 「針供養」がありますが
あれは、折れた針の内にある「モノ」の鎮めをやっているのです。
「モノ」というのは霊魂なんです。そして「神」もまた 霊魂です。
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東山魁夷(日本画家)---あの人に会いたい(TV) 抜粋
両方が一つに結ばれるのは
両方の生命の源泉が 一つだから と感じるからだと思う んですよね。
これが
「木は植物で 人間は人間だ 生物の中で 人間が一番偉い」
という気持ちを持っていたのでは
いつまでたっても 発信音は聞こえない
そしてま た 向こうが 『生命はつながっているものですよ』と言ってるのが
”樹木の家族” ジュール・ルナールの博物誌から