虫の声、花のささやきを聞いて

日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係 の続き

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

林氏

--自然の発する音が すべて 言語音としてとらえられる
--それによって神経や感性をも刺激するということだから
--日本人の 鋭敏な感覚や 情緒を育てたことになる。

虫の音がするところで人と会話するのは
2人の人間と同時に会話しているのと 同じような状態になる。


文字どおり、 花のささやきを 聞き取ることができる。

日本人の美意識、「もののあはれ」は、
ここから生まれた というふうに思うんです。

角田氏

言語(ロゴス)と 情緒(パドス)と 自然が 混然一体となった文化の特徴と
日本人の脳の機能は、見事に一致する。

私も、脳の働きのレベルで 
文化論の裏づけがとれたように思っているんです。


林氏
外国人にとっては 左脳は言語(ロゴス)、右脳は情緒(パドス)ですが、
われらが日本人は そんな”器用”使い分けができない。

言語も情緒も 一緒くたに 左に入ってしまう(笑)

ガイジンなら右に行く虫の音が 
日本人には左に入って来るので
それに意味を持たさざるをえず、
一定のカテゴリーに当てはめることになった。

これが、日本語に擬声語、擬態語を
極端なほど多様に、豊富に生み出させた原因ではないか。

そして、これらのことが、外国人と異なる自然認知の精神構造を育て、

自然を人間と対立するものではなく、

一体不離のものとする感覚に導いたのではないか と思うのです。

こうしたゴチャゴチャなところが、

八百万神(やおよろずのかみ)の源であり、

日本人の「心」を 形づくったのではないか。

言語と情緒が ごちゃまぜになっているもの、

それが ハートでもなく、スピリットでもない、

日本人独特の「心」ではないかと。

------------------------------------

角田氏
なるほど。
しかし、そういう日本人の特異性 というものは、

外国人から見たら、決して 愉快ではない というのが、
実のところ、私の正直な感触です。

たとえば アメリカの学問も、随分と政治に影響されているように見えます。

はじめは 少数民族を理解すべきだ
という相対論を掲(かか)げる人たちが頑張っていたものが、

今では 一変して、
ある種の普遍論を押し付けようとしているのではないですか。

違いは許さない という非寛容が 感じられる。


たしかに、外国人、白人の普遍主義は、例外的な存在に対して
劣等 というレッテルを貼って 排除してきた。

角田氏
逆に、その特異性に対して、
それは 日本人の優越感の現われで 人種差別だという反発もある。

特に 日本経済が世界を席巻していた頃は、

私のところへやって来た欧米の 多くのマスコミが
「角田の本はけしからん」という そんな感じでした。

私は別に 日本人が優れていると言ったわけではない。
違うというのは 上下の意識だと(笑)。
優性だと言っているのと同じだと 決め付けてくるんですね。

林氏
私は、角田さんの学説がもたらす日本人の未来について
いろいろな希望を持っているんですが、
同時に 危惧も 抱いています。

その一つが、こうした 外国人の誤解というか、
排他性なり嫉妬からくる反発ですけれど、

同時に、日本人にも これを”悪用”する人たちが出てくる可能性が
あると思うんです。特異性を 単純に優位性と
置き換えてしまうことは 危険です。

日本人が「角田学説」を利用して
極端な 民族主義、極右的な原理主義的な考えを周囲に向かって
それこそ 上下の意識で 展開するようなことがあってはならない。

しかし、やっぱり同時に、「角田学説」が”武器”であることも確かなんです。

なぜなら 外国人にも通じる科学の領域の話だからです。

直感でものを理解してくれない相手に対しても、
説明、説得が可能である というのは、
日本人が はじめて 手にすることができた武器です。

武器 --というのは言葉が適切ではない
コミュニケーション・ツール とでも言い換えたほうが
良いのかも知れないけれど--
とにかく 唯一のものだ と私は思っている。

そして、われわれはむしろ その特異性を謙虚に自覚した上で、

他者との距離や 差異を きちんと認識することが大切なんだと思うんです。

われわれの持っている価値観が

世界人類の未来に なにがしか 役に立つことがあればいい。

それを 世界に広めるとか、教える と言うと
これまた語弊(ごへい)があるのでしょうが

日本人が 日本人であることを
深く自覚しているかぎり、
そして それを 喪失しないかぎり、

いずれ そうなってくるような気がするんです。

日本人が戦闘的になったら、

彼らの文明と 変わりない ということになってしまう。

その意味では、日本人は あるがままに、
「保守」の意識でいることが第一だと思うんです。

角田氏
日本人のアイデンティティが
現代人において 急速に失われてきたように見えるのは 確かですね。

脳の面では 変わらないんだけれども。

だから 林さんのおっしゃるように
優位性 と単純にとらえるのは問題だけれど、
特異性への 前向きな自覚 
というのは 不可欠だと私も思います。

林氏
若い人にもわかりやすいのが、擬声語、擬態語の多様さですね。

たとえ雨が降る音でも、

ザアザア、シトシト、ポトポト、パラパラ

と、みんな情景が違う。

蝉の鳴く ミンミン、カナカナ

擬態語としての ニョキニョキ、グニャグニャだとか、

こういう表現は、本当に 日本語だけのものですよ。

私は 日本とオーストラリアの両方で
役者志望の青年たちに 演技の指導をしたことがるんですが、

そこで たとえば ヨタヨタ歩いてくれ とか
ヨロヨロ歩いてくれ とかいう注文をすると、

日本人は 上手い下手の違いはあっても

一応区別して それなりの演技をするんです。


ところが、英語には こういう擬態語の表現が無いから、

「タイアード(疲れた感じ)でウォークしろ(歩いてみて)」
みたいな 表現になる。

そうすると、演技にも それが反映される。

言葉がない ということは

要するに、 概念がない ということで 動き(アクション)もない。

だから、日本人から見たら、たとえ名優ダスティ・ホフマンでも、
演技のなかに そういう細かい擬態語、擬声語の演技は
あまり 感じられない。

やっぱり 違うんです。

特異性と どう向き合っていくか -- 日本人の未来

林氏
われわれ日本人が 明治以来、本当に苦労して英語やフランス語、
ドイツ語を学んできたのと 同じような努力を
彼らが 日本語に向けるとは 考えられません。

日本文明の価値 というのは、
彼らの言葉、論理 にあてはめて 容易に説明できるものではない。

たとえば 「ご神木(しんぼく)」という感覚、

なにゆえ その樹木が尊いか ということは

科学的に証明できないけれども、

不可知であっても 尊いと思う日本人の感覚は、

「人間は人間、自然は自然」と 
はっきり区別して認識している彼らからは 遠い世界です。

ここで 虫も 川も、人間も一体であるというのは、
言葉を鍵に考えると 得心(とくしん)がいくんです。

ちょっと極端に言えば、

みんな同じ言葉をしゃべっている。

母音 という母親の膝の上で

万物は みな同胞だ という感覚を

そのまま受け入れているのが 日本人ではないですか。

したがって われわれは 情感を基本として
価値判断をする民族であって、

ロジックだけでは説明しきれないものがある
という自覚が
、--国際化であれグローバリゼーションであれ
言葉はなんでもいいんですが-- これからの日本人には
不可欠である と思うんです。

でもそれは 他者とのコミュニケーションを考えると、
深い深い絶望からのスタートを意味する。

角田氏
日本人の脳が違う というのは、結局 大脳皮質以上に
無意識のレベルでの話 なんですね。

今 日本人を考える時

アジア人であると同時に

一方で 西欧化した日本人という像がある。

実は もう一つあって、

縄文時代以来、日本語を守って

山の中で 古い神様を守ってきたような

それこそ、説明不可能な日本人の原像がある。

私は、これこそが 日本人の本質ではないか

と考えているんです。

無意識に持っている 古神道の世界観、

それを 日本人の脳は
メカニズム(装置、仕組み)として 持っている
と 言い換えてもよい。

林さんのおっしゃるように、

この特異性と
どう向き合っていくか

ということが、

日本人の未来を左右する

と私も思います。
------------------------------------

角田忠信氏
1926年、東京生まれ。
東京医科歯科大学名誉教授
聴覚を通して 脳の機能解明を行なう「角田法」を開発

林 秀彦氏
1934年 東京生まれ。学習院高等科
ザール大(独)、モンプリエ大(仏)に学ぶ。
脚本家「7人の刑事」他 作品多数

    

砂上の楼閣から脱出する

吉川元忠氏

グローバリズムというのは、

基本的にアメリカの都合から出てきたものです。

というのは、アメリカは赤字で、自分の国だけでは食えないからです。

グローバルにいろいろなところに
手をのばさなければやっていけないわけです。

企業価値とは、
その企業の株式の時価総額であるというのが、
グローバリズムの考え方です。

これは企業を売り買いするのに便利なように、
企業の値段をはっきりさせようという
アングロ・サクソン的な発想であり、
要はM&Aをやりやすくするための、
アメリカの都合に基づいているのです。

時価総額をイコール企業価値だといって絶対視する風潮に、
私は疑問を持たないではいられません。

会計制度の問題でも、
時価会計とか減損会計というアングロ・サクソンのルールを、
日本は不況の最中に導入しました。

これも結局は、
M&Aのために企業価値をはっきりさせろということですから、
本末転倒というしかありません。

これ以上、アメリカの都合に振り回されないためには、
アングロ・サクソンの価値観を
無批判に受容することをやめなければなりません。

たとえば企業社会で本当に大事なものは何か、
何が本当の価値なのかということを、
日本人自身が考えていかなければならないと思うのです。

迂遠(うえん)な話をするなら、

結局は思想の問題であって、
アメリカに対抗できる思想体系を
日本は持たなければならないと思います。

哲学や思想、そして『万葉集』や『源氏物語』といった
文化から民族の歴史までをも含めた巨大な思想体系、

あるいは経済思想の体系がなければ、だめだと思うのです。

もう少し一般的なことを言うと、
世界は大変な変わり目を迎えているという認識を持った上で、
戦略を立てる必要があります。

このままアメリカモデルを受け入れ続けて、
どんどんグローバル化を進めていった場合、
日本はアメリカの亜流のような国になるでしょう。

それでいて、バックス・アメリカーナ自体が相当問題を抱えていて、
とくに通貨の問題は深刻です。
日中というと対立関係だけが目立つけれど、
共通の利益を模索しようという考え方まで排除すべきではないと思います。

国際政治学者のジョセフ・ナイは、
自国の価値観を他国にとって望ましいと感じさせ、
協調を生み出す力を「ソフト・パワー」と呼んでいます。

日本のソフト・パワーは何かというと、
それは半導体やデジタル技術などではなく、
先ほど言ったように、最後は思想だと思うのです。

グローバリズム一辺倒の今、
それに対する対抗軸となるような思想を構築しようとしている人が、
世界的に見ればいるようですが、これは大変難しい。

でも、誰かがやらなければ、
アメリカ流のグローバリズムに世界は呑み込まれてしまいます。

日本がアジアに訴えるにしても、
最後はそういう思想が問われることになると思うのです。

    

土地神の声に 耳を澄ます

続き...月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思い出す