日本語で育った脳--川・風・虫の音と「親しい」関係

林秀彦氏 『失われた日本語、失われた日本』以下抜粋

日本語 ポリネシア語で育った人の脳は、
母音、子音にかかわらず、音は左脳へ送られる。
虫の音、風の音も 「言語音」と同じように処理されている。

日本語 ポリネシア語以外で育った人にとって
母音は「非言語音」--「雑音」 右脳で聴いている。

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角田忠信氏

日本人が彼らの言葉を翻訳し、互いにコミュニケーションが図れたように思っても、実は 本質の部分では なかなかそうはなっていない。
彼ら--ノン・ジャパニーズですが--から、【日本人の異質性、特異性】が強調されるのはなぜか。そして、われわれも どこか彼らから疎外されているように感ずるのは なぜか。

それはやっぱり われわれが 文化として根強く持っているもの、
下界を認知する枠組み が、彼らと大きく異なっているからなんです。

林氏
その枠組み とは、【日本語】によって形づくられたものですね。

角田氏
そうです。ただ 日本語に行き着くまでには いくつかの過程がありました。

学会に招かれて講演したことがあります。

ある夜、大きな庭園でパーティが開かれたんですけれど、
もう 草ぼうぼうで、コオロギかなにか 虫がしきりに鳴いている。

それが ザアザア雨が降っているような音なんですね。

私には それが虫の音だということがわかる。

ところが、周囲の人間は 誰も その音がわからないんです。

「聴こえない」と言うんですよ。全然 聴こえないと。
ロシア人も キューバ人も みんなです。

音に気付かない。

「先生はきっとお疲れなんです。早くホテルの部屋に帰って
休まれたようがいい」と言うんです。
帰り道に、ひときわ激しく鳴いている草むらで
「ここでたくさんの虫が鳴いているのがわからない?」
と もう一度たずねて、草むらに首を突っ込んで
聴いてもらったんだけれど、「聴こえない」と言うんですね。

ところが、これを学問的にやると、つまりその虫の音を録音して
レシーバーを通して聴かせたら、これは 誰でもわかるんです。

音をモノとしてテープにして聴かせたらわかるけれど、
自然に あるがままの状態だと わからない。

たとえば、同じオーケストラの演奏を聴いても、
訓練を受けた人間と、そうでない人間では
受け止め方、感動に 差が出るでしょう。
そういう訓練なり 能動的な意志を全部取っ払った自然の状態でどうか
というのが 問題なんです。

林氏
たしかに、日本人は 川のせせらぎの音 とか、風の音とか、
虫の音であるとか、そういうものを雑音としては とらえていません。

なにか 意味のあるものととらえているからこそ、
俳句にしろ、和歌にしろ、音の情景描写 というのが豊かなのだと思います。

ここで虫が鳴いていると言っても、見なければわからない人間と、
見なくても その音だけで虫の存在がわかる人間の二種類がいる。

ただ、彼らの場合、”虫の音”とは聴こえていなくても”雑音”としてなら
聴こえているんですか?

角田氏
いや、音そのものが聴こえない場合と、音に気づいても
虫とは気づかないことがあるようです。
ただ、いったんそれを虫の音だと認識したら、以後はわかるんだと思います。
能動的に学習したら わかる。

秘密は 日本語の「音」に

林氏
ホント、不思議ですね。
私は日本を逃げ出して

オーストラリアに住み着いてから14年になりますけれど、
アングロサクソンと日本人は なぜこうも
ことごとく違うのか と嘆息するような毎日です。
それが角田さんの『日本人の脳』を読んだときは、
目から鱗が落ちるというのを実感しました。

私は、白人の文明の基底は キリスト教文明であり、
根本的には嫉妬から発生した文明だと思います。

今のアメリカを見てもわかるように
”富への欲望”と言い換えてもいい。

厳しすぎる環境が、彼らに力を与え、
彼らは 個人としても 民族としても、富の独占を指向せざるをえなかった。

言ってみれば、生き残りの原理です。

この 飽くなき欲望追求が 不可避である以上、
つまり 善 として肯定しなければならないのなら、
宗教は その原動力を何らかの形で擁護し、
行き過ぎを抑制する機能を 持たざるをえない。

今、西欧では それが抑制できなくなっている。

欲望と、嫉妬と、科学が
「神を死なせた」
と言っていいのではないかと思うんです。

私たちにとって厄介なのは、
 
そういう彼らの 嫉妬なり 欲望なりは
日本語で表現できるものではなく、完全に非寛容であり、

反対者を 駆逐(くちく)せずにはおかないものであることです。

しかも 彼らは言語(ロゴス)ですべて解決できると思っている。

彼らにとって 言語は 武器です。

日本人にとって 言語が武器だったことはない。

この決定的な差異を認識しないかぎり

双方にとって 大きな不幸をもたらすと思うんですね。

角田氏
ただ、その脳の差異 は、人種とかDNAレベルのことではありません。

あくまでも 日本語 という言語によるんです。

肌の色、瞳の色の違いが 
脳の機能の違いにつながっているわけではない。

日本語の「音」のなかに 秘密がある。

林氏
日本人の脳の特殊性 というのは、日本語の構造というよりは
音の関係が 深いんですね。

角田氏
そうです。最終的には 母音に大きな意味があると思います。

実験で明らかになったことは、
母音を聴くのは 日本人では左脳で
西欧人では 右脳だということでした。

西欧人の場合は、母音だけだと雑音と同じように右脳で聴いている。

日本人は 母音を 言葉として左脳で聴いている。

母音を左脳で聴く人というのは
”日本語を主に使う人”だということがわかってきた。

その後の調査で
ポリネシア語を話す人たちも
日本人とまったく同じで、
母音を 左脳で聴いている ということが判明した。

そしてこれは 遺伝はまったく関係ない。

たとえば、日本語で育った外国人をテストすると、
日本人と同じように 母音を左脳で聴いています。

逆に 帰国子女の調査をしてみると、
生まれてから9歳くらいまでに使っていた言葉によって、
それが違ってくる ということがわかった。

外国で生まれ育って、5歳くらいで英語べらべらのような子供でも、
6歳以下で 日本に帰って来て、

日本語の言語空間のなかで教育を受けると、
ちゃんと日本語のパターンになるんですね。

要するに、6歳から9歳くらいまでのあいだを 日本語で過ごしたら、
韓国人だろうが、アメリカ人だろうが、それこそ何人であっても、
みんな日本語のパターンになってしまう。

林氏
そう考えると、たとえば外国人の子供でも、
9歳くらいまで日本語で育てられていれば、
そのあと アメリカで暮らすようになっても
俳句や和歌のセンス、その基底部分は持ったままでいられる。

逆に その時期を日本語ではない言語で過ごした人は、
いくら努力しても それがない ということになる。

角田氏
9歳まで日本語で育っていればね。
日本人というのは 血統から見たら 本当に雑種なんだと思いますよ。
人種の坩堝(るつぼ)です。
朝鮮系、中国系、南方系、北方系と 入り混じっている。

目つき、顔型、体つきも違う。

ただ、


日本語をしゃべるということにおいて
みんな 日本人になるんです。


これは 本当に面白いことです。