〔からくり人形〕の技--技術立国日本の原点
『和を継ぐものたち』小松成美さん 以下抜粋
尾陽木偶(びようでく)職人
玉屋庄兵衛(たまやしょうべい)さん
300年来の伝統技術を今に伝える
世界で ただひとりの からくり人形師
--- からくり人形といえば、畳の上でカタカタとお茶を運ぶ
「茶運び人形」が いちばんお馴染(なじ)みですが、
玉屋さんは それを大英博物館に寄贈されたそうですね。
はい。博物館から依頼を受けたので 納めてきました。
基本的には ゼンマイを巻いて、誰でもできる動かし方です。
☆
尾張藩では 神社のお祭りが盛んで、
からくり人形も ものすごく需要があったんです。
日本国内の からくり人形の9割方は、この尾張地方で、
当時から山車だけでも370、
人形の数だけでも 350は あったようですからね。
--- 尾張が からくり人形の中心地になったのは、
人形を作るための素材が豊富にあったことも関係しているのでしょうか?
それもあります。
今もそうですが、木曾(きそ)のヒノキとか、岐阜にはカリン、カシ、ツゲなど
人形の材料になる 堅い木が集まる市場がありましたし。
--- 一番いいものを 最初に手にすることができたわけですね。
そうです。
からくり人形は だいたい一体に 4~5種類の木を使って
作られています。
それが 何百年ももって、今でも同じ状態で動いているんですよ。
☆
第二次世界大戦の前に
戦争体制で 祭りが禁止になって以来、
しばらく からくり人形が脚光を浴びない時代が続いたんです。
戦争中には 名古屋市内は 戦災でほとんど焼かれ、
道具もなくなって、職人もいなくなった。
戦後になって、復員した父が 再び からくり人形に取り組み、
修理や復元を 少しずつ始めた という状況だったんです。
-- そこから再び
世間の注目を浴びるようになったのは いつ頃なのですか?
兄と僕が 父に入門した昭和54年ごろでしょうか。
マスコミで たびたび からくり人形が取り上げられて、
人形師がいるんだ ということがわかって、
京都の祇園祭や 高山のお祭りからの仕事が
ものすごく 多くなっていきました。
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人形は 自分が死んだあとも 何百年も残るものですから、
半端なことは できません。
今でも、 二代がつくった人形は しっかり動いているんですよ。
からくり人形の技術は、江戸中期には もう 完成されていますから。
--- つまり、約300年前につくられたものが、
今でも 完璧に動くんですね。 機械では ありえない。
それは 木を使っているからです。
これがプラスチックだったら、
劣化して パキンと割れたり
歯車の穴が大きくなって 動かなくなったり、
たぶん 10年も もたないと思います。
木というものは すごいものだなと、
昔の人形の修理をしながら いつも思います。
--- お人形の各部によって
使う木の種類も 違うのだそうですね。
ええ。それも 昔のままのやり方です。
よく動く支軸(しじく)や ピンには 堅いアカガシ、
歯車にはカリン、頭や足には 細工がしやすいようにヒノキ、
胴には 反(そ)りにくいサクラという具合です。
頭は 能面づくりの技法で つくります。
--- 木という素材のすばらしさプラス、日本人の手先の器用さも
からくり人形のすばらしさを 支えているわけですよね。
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ひとつ 心配なことがある。
動力のゼンマイに クジラのヒゲを使うのですが、
今はもう 捕れない。
少しは備蓄しているものがありますが、
代用品を使う気はないので、将来が とても不安です。
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--- 設計図を残さない というのは、
人形のつくり方が秘伝だからでしょうか?
それもあります。
だから、人形の構造や 仕掛け(からくり)のしくみ、素材など、
すべて覚えるのに 15、6年は かかります。
からくり人形の技は、技術立国 日本の原点だと思います。
人形が動いたらおもしろいだろうな
という発想から生まれたと思うのですが、
そんな日本人の遊び心と 知恵と技術が、
小さな一体の人形に 凝縮(ぎょうしゅく)されている。
世界に誇れるものだと思います。
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