「粗大ゴミ」を癒す「可愛い」女性たち(日本社会)

宮本政於(みやもと・まさお)氏
1948年~1999年 東京都生まれ 精神分析医
1986年、アメリカから帰国して厚生省に入省するが、

官僚社会批判で懲戒免職となる。
『「弱い」日本の「強がる」男たち』 より抜粋
1993年にジャパンタイムズより刊行された。今読んでも、色あせていない。


日本社会では、男性に大人、女性に子供の役が割り当てられ、
可愛い子を上手に演ずることが出来る女性が尊ばれる。

男性と同等の立場に立って意見を言う、そんな女性は従順ではない、

すなわち可愛くない女という評価となってしまう。

可愛らしさは、子供っぽさと結びつくが、それ以外に、人間の持つ攻撃的な側面を見なくてもすむ、という部分も存在する。可愛らしい女とは、”子供っぽく、男にいつも依存する存在”という意味合いを持つ。


男に脅威とならない女が可愛い女だ、
という図式が見えてくる。

男性は、自分の持つ不安を、女性という相手に投影して、

女性こそ自立出来ない不安の塊(かたまり)だ、
そう思い込んでいるから、
自分たちの不安に直面する必要がない。

ニューヨークに赴任し、ノイローゼになった日本人男性
『部下の半分は現地採用です。そのうちの3分の1は日本人なのですが、

日本人は男性女性問わず、日本にいる日本人とは違います。
特にその違いが、女性に顕著に見られるのです。
彼女達は日本人の顔をしていながら、
とてもはっきり自分の意見を言うのです。
これがショックでした。

私も女性の扱いはそれほど下手ではありません。
自分の意見をはっきり言う女性も、日本でなら、可愛いものだと おおらかな気持ちで接していました。

でも、ここの女性はすごいとしか言えません。
可愛いどころか、おっかないんですよ。
うっかりしたことを言えば噛み付いてくるのではないか、
少なくとも私にとってはそんな雰囲気なんです。
一言で表現すると、アメリカの女性には可愛らしさが無いということです。』

☆ ☆ ☆

「親方日の丸」「お上(かみ)」意識には、
日本人の理想化した母親像が投影されている。
苦境に陥っても抱きかかえてくれる、問題を解決してくれる、
いたわってくれる、一種の理想化された母親的なイメージを
「お上」に重ね合わせているのだ。

ニューヨークに赴任したA氏は、アメリカ人から個人としての対応を迫られた。
個人としての対応とは、
具体的には”自分の意見を述べること”であり、
最高管理者としての責任を負うことでもある。

☆ ☆ ☆


「粗大ゴミ」とは
家では邪魔な存在でしかなく、家族の誰もが見向きもしなくなっている人。
滅私奉公一筋に働いてきた組織人間でもある。

A氏が自分を「粗大ゴミ」と評した時、私は迷わず、この人はかなり心に問題を背負った人だと判断してしまった。

「粗大ゴミ」と呼ばれているこれらの『お父さん』の末路を、
改めて厚生省で目撃するまでは、まさか『日本のお父さん』の圧倒的多数を占めているとは思いもよらなかった。

「粗大ゴミ」おじさんの特徴
ゴミとなるのは男性と決まっている。年齢は中年以降で腹が出てきている。だから当然ずん胴で、どんな格好のよいスーツを着ていても、シルエット台無しとなる。セクシーさや男らしさはどこにも見ることが出来ない。
結果として若い女性たちからは、見向きもされない。
ところが、女性への それも性的な関心はかなり強い。
だから、女性たちがそばに来ると、
彼女らの体の線をいやらしい目つきでなぞる。

女性からは、モテナイので、
部下である男芸者からゴマをすられることに喜びを感じるようになる。


食後にこれまた「粗大ゴミ」氏たち独特の癖を見ることが出来る。それは爪楊枝(つまようじ)をしゃぶる癖だ。トイレから出てくるとき、廊下に出てからファスナーを引き上げているのも「粗大ゴミ」氏たちに共通している動作でもある。

彼らは人生のうち一番大切なことは仕事だと信じて疑わない。

その影響か、昼食は15分ぐらいですませる。

*** *** *** ちょっとブレイク *** *** ***

石田 徹也氏 の作品
ドキッとするほど 今の日本を捉えている。
燃料補給のような食事 
派遣で働く若者の言葉
『人を配置することを、”弾(たま)を込める”って言うんですよ。モノ扱いです』

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ラジオ体操を好むのも その特徴だ。
たった2、3分なのだから、運動効果などまったくない。

気分転換になると言った人もいたが、集中力の妨げ以外の何物でもない。
みんなが一緒に行うべきだと集団が認知している行為は、
何にもまして優先する。


こうして、組織は次々と「粗大ゴミ」を作り出し、
作り出された「粗大ゴミ」たちは、
率先して新たな「粗大ゴミ」を作ることに力を注ぐ。

人間ロボットと化した人間が、新たな人間ロボットを作る。

「粗大ゴミ」は、マゾヒスト
食事でも自主性はない。
課長の「昼飯だ」の掛け声一つで、課長に同行する。みんなが同じものを食べたいと思うとは考えられないのだが、年功序列の素晴らしさ、上司が希望を述べれば部下はその希望を出来るだけかなえようとする。

課長がそばを食べたいと言えば、全員右へならえなのだ。

所属している部・課の同僚、上司らと昼食を共にしないと、「付き合いが悪い」という評判が立つ。

組織で仕事をする以上、何回かは義務と割り切って一緒に食事をしなければならないことはよくわかる。しかし、趣味も感性も一致しないのに、連日のように一緒に食事をすることが当然で、しかもそのように行動しないと、

「属している集団と一緒にいるべきだ」
というプレッシャーがかかってくるのは、
どう考えても異常である。

だが、これも
「粗大ゴミ」族を育成して、
個人を組織のためにロボット化するための手段である、と思えばうなずける。

家庭が、世界が「粗大ゴミ」菌に汚染されていく
「粗大ゴミ」的環境に染まってしまうと、平日に家族と一緒に食事をとるのはほとんど不可能となる。

父親不在の家庭は、
親離れ、子離れができない、いびつな母子関係を作り出す。

*** *** *** ちょっとブレイク *** *** ***
『「内づらと外づら」の心理』 加藤諦三氏 以下抜粋

私たちの中には情緒的に成熟した両親のもとで健全に育つことの出来た人もいる。しかしそれはまったくの運であって、自分で選べるものではない。人間の偉大さは、情緒的に未成熟な両親のもとに生まれ育っても、自我の形成が出来るということではないだろうか。

その条件が、生家に対する感情をごまかさないことである。
生家に対する感情をごまかすと、自我の基盤がなくなってしまう。

健康な家庭に育った人はいとも簡単に、親孝行は大切だ、家庭は大切だ、
親や同胞とうまくやることは大切だと言う。それはそのとおりなのである。
しかし、条件がつく。


親が情緒的に成熟している時 という条件である。
大人になろうとした時、最大の障害は”健康な人”の価値観である。


父を拒否し、父を憎悪する母にとり込まれた息子に向かって、 父母が仲良くやっている家庭の息子と同じ倫理を要求することは、 40度の熱を出している病人の健康のために ジョギングを要求するのと同じである。 「心が病気になって苦しめ、死ね」ということである。 神経症性うつ病などは、それゆえにこの仕組みを打ち破れずに なってしまったものではなかろうか。

神経症性うつ病の傾向を持てば、今度は自分が自分より弱い立場の人間に対して加害者となっていく。

親は自分の思い通りにならない代償を子供に求める。子供の人格を無視してねこっ可愛がりをする。子供は自我の形成をあきらめてペットになれば、
いつまでも可愛がってもらえる。家族全員が成熟拒否をすれば、気味のわるい平和はその家に訪れるが、自我の形成を始めれば崩壊する。

成熟を拒否した親は、成熟しようとする子供を憎み排斥する。
子供は、結婚し配偶者と親しくなることは望まれない。

嫉妬深い親は
すべての他者をよそ者として排除しておく世界観を 子供に望む。

スチューデント・アパシー、サラリーマン・アパシー(⇒無気力
それらの人に求められることは、
自分が癒着している人間の欺瞞を見抜くことである。

自分が誰と癒着しているかは、すぐにわかる。
その人の支持や賛成なくしては、何も出来ないという人である。
その人に自分は取り込まれ、
その人の持っている心理的ゆがみを受け継いでしまっている。

癒着とは、その人なしには何もできないくせに、
その人といることを心から楽しめないという関係である。

自分は癒着していないというなら、あなたはどうして大学生活を楽しめないのか、どうして会社の同僚と楽しくやれないのか、どうして学業にもサークル活動にも集中できないのか、どうして結婚生活が充実しないのかを考えてみるがいい。

母子癒着の責任は、子供より母が先だろう。

癒着ということは、愛し合うということではない。お互いのアイデンティティを放棄して結合するということである。愛し合うということは、お互いの人格、個性を認め合った上での関係である。

母親自身が自分は何であるか、
自分は何のために生まれてきたのか、
自分の生きる意味は何か、
自分にはどういう生き方が向いているのかがわからない。
つまり、母親自身が自分のidentityを持てない。
それを子供と共生することによって
自(みずか)らのidentityを確立しようとしたのである。


子供を自分の延長として見た。子供を別個の人格として、自分と区別して考えることをしなかった。こうして母子癒着は起きてくる。夫に失望・嫌悪・不満を子供で乗り切ろうとした。

母の父に対する嫌悪、敵意、拒否を息子に受け継いでいく。
男性たる父に同一化できず男性性の欠如をもたらす。

このような母とうまくやるということは、男らしさの無い幼児性を自分の中にとどめることが条件なのである。母は自分を愛したのではない。
自分の欲求不満を解消するための手段を自分に使ったにすぎない。

情緒未成熟の親にとっては、

子供が心理的に病んでいることが必要なのである。

自己主張せず、自分の頭で考えず、自分なりの感じ方をせず、

ひたすら服従する子供は、傷ついた親の自我の拡大感に役立つ。

癒着を断ち切ろうとする者は、癒着の恐ろしさを知らなければならない。
”健康な人”の価値観を無視して、その癒着を断ち切ることである。

親の癒着を断ち切るということは、
同時に自分の依存心を克服することである。

依存心の強い者は、どうしても内づらが悪くなる。

内づらが悪くて外づらがよい人は、

自分の内面が二つに分化し自我の統一はなされていない。

今まで自分の育った環境が

自我の形成に障害になっていたということを認識し、

違った環境

つまり自我の形成に良い環境を選ぶことに専心するのが何よりであろう。

自我の形成に良い環境とは、

何よりも情緒的に成熟した人々のいるところである。

立派な家も、高い社会的地位も必要ない。あなたの成功によって、自分の地位を上げようとしているような人のいないところ、成功へのストレスの無いところ、あなたが感じるように感じることが許されるところ、そして何よりも、誰かに忠誠を誓う必要の無いところである。

過保護の場合、親が子供を可愛がるのは、「子供が自分の支配に服するかぎり」においてである。これを子供の側から言うとどうなるか。「自分が親に忠誠をつくすかぎり」ということになる。

過保護は、その子のありのままの「自己」を激しく拒否している。その子が自己喪失して、忠誠を誓い、従順であるかぎりにおいて保護し、受け入れる。自己喪失した子に、親は満足する。

外から見ると平和で立派な家庭である。時には理想的にさえ外には見える。しかし、保護、忠誠、満足、自己喪失の家庭は病んでいる。その集団としての家庭の病気は、やがてある特定の子供を通して表面化してくる。
子供は、自分の本質を拒否している人間に対して忠誠を誓う。

そして病んでいく。

新しく求める環境の中では、忠誠を誓う必要を感じる主権的人物がいてはならないのである。

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食事はコミュニケーションの場であるし、楽しみでもある。

それが家庭の中から喪失しているのが日本の現状だ。

家族そろって組織に貢献している。

そう聞けば耳に快(こころよ)いが、

実態は父親が「粗大ゴミ」となり、

家庭は断片化しているのである。

こうした組織の論理の弊害(へいがい)は、家庭の中にじわじわと浸透しているのである。

「粗大ゴミ」を作り出す価値観 組織優先の発想は、
子供の性格形成に重大な影響を及ぼし、
社会に悪影響を及ぼしている。

家庭内暴力、登校拒否、

学校内でより陰湿化している「いじめ」、キッチンドリンカーなど、

みんな「粗大ゴミ」菌が蔓延したために起こった現象だ。

”滅私奉公”の発想は、子供を犠牲にするだけではなく、

組織のためにと滅私奉公している本人までダメにする。

「粗大ゴミ」思想は、日本社会に百害あって一利なしである。

しかも、害は日本社会だけではおさまらない。外国、特に先進諸国は、日本が「粗大ゴミ」パワーを利用して高品質な製品を作るものだから、競争力を強化せざるを得なくなる。

おかげで、彼らは一番大切だと思っている家庭での生活時間、
個人の生活を削り、日本に対抗することになる。

日本で生まれた「粗大ゴミ」病は、先進国全部を汚染してしまう。

終電まで働いても、誰も異常だと思わないし、思っても言わない。


だが、そうした状態が異常であることを認識し、
声を大きくして自分の生活を守る、
これが「粗大ゴミ」病の伝染力を減退させることにつながる。

勤勉だと自慢することは良いことだ。
だが、勤勉の裏返しが、個人の生活の犠牲であるのならば、

自慢どころか恥じるべきことである。

個人の犠牲の上に成り立った繁栄は、
生活を後回しにする国だという証拠である。

個人の生活を獲得するための戦いは正しい。

しかし、戦う姿勢をあまり鮮明にしてしまうと、

共感を持ってくれている人でも距離を置いて接するようになる。

これが、日本で主義主張を鮮明にすることの難しさである。

自分の意見を主張することによって、
集団の調和が乱れるのであれば、主張は抑えるべし、
といった誤った価値観を植えつけられているからだ。

「粗大ゴミ」菌が蔓延してしまった組織の内部で、個人を尊重しましょうと言うこと自体、無理があるのかもしれない。

しかし、「粗大ゴミ」病の、人間に与える悪影響は 計り知れない。

「信じること、疑わないことこそ日本人」
もしもこうした発想が心の奥にあるのであれば、
それ自体、疑ってみる必要がある。
なぜなら、この発想こそ
「服従」が昇華(しょうか)したものであるからだ。

上司、先輩、先生などと呼ばれる人たちの価値観に挑戦してみよう

その結果として、「日本人らしくない」そう批判されるようになれば、
世界というマーケットを相手に競争できる素養が備わったと考えてよい。

これからは個人としての強さが求められる時代だ。そのためには、どうして「強がる」男たちに支配されてしまったのかを知る必要がある。

「心理的な去勢」教育を受けてしまった
それが結論だ

彼らは国民を弱い人間としておきたいのだ。支配する側に立ってみれば、
そのほうが楽であることは誰にでもわかるだろう。
「心理的な去勢」とは国民を弱い存在にしておくための催眠術だ。

でも、催眠術だから、その呪縛(じゅばく)から自分を解くことも簡単だ。

「自己主張」がその答えである。
自己主張は、強い自分を作るための練習となる。

常に現実から目を背(そむ)けない。

これは自分の気持ちに忠実に行動することでもある。

誰が考えても、彼らが作り出した集団社会に服従しているよりは、自分を生かして個人の生活を満喫するほうが良いに決まっている。

「わがままだ」などという批判を気にしてはいけない。

    

日本社会-- 家庭-- 父親の不在 断想

トルストイ--生きる光を見失って