東山魁夷 自然-【巡り合い】-モノ--大切にする心

東山魁夷(ひがしやま かいい)氏

『東山魁夷 第二巻 風景遍歴二』以下抜粋

私が 絵を描く ということは --祈り-- だと思うのです。

祈り というものは

上手に祈る、下手に祈る ということではなくて

心がこもるか こもらないか だと思うのです。

    

私は 私の意志で 生まれてきたわけではなく

死ぬ ということも 私の意志ではないだろう。

こうして、今 生きている というのも

はっきりと意志が働いて 生きているわけでもないようだ。

したがって 絵を描く ということも---

私は 生かされている。


野の草と 同じである。

路傍(ろぼう=みちばた)の小石とも 同じである。

    

花が 永久に咲き
毎晩 満月が空に昇り
私も 永久にこの地上に生きているのなら

これらの巡り合いには

なんの感動も 起こらないでしょう。

花を 美しい と思う心の底には

お互いの生命をいつくしみ

地上での 短い存在の間に

巡り合った喜び
が 感じられているに違いありません。

巡り合いを大切にすることの根底には

人生を 旅 と見る心が在ると思われます。

時が過ぎ去って行くのではなく

私たち この世に在る 全(すべ)てのものが

過ぎ去ってゆく。

「無常」という宿命の中に 

私たち すべてが生かされているのですから

今 このひと時を 同時に生きている

--という連帯感が 起きるのでは ないでしょうか。

その時

お互いの心が通い合い 愛と美も生まれる ということになります。

このような 無常観は-- 生滅変化 流転すること--

これこそが、生きている証拠であると私は考えているのです。

    

日本列島は 程よい緯度に位置し

その南北に 長い地形を 背骨のように山脈が縦走していて、

樹木の種類も多く よく繁茂(はんも=草木が盛んに生い茂る)しています。

そのため 風景は 多彩な面を持っているのです。

また、湿潤(しつじゅん=水分が多く しめっていること)な気候は

霧(きり)や霞(かすみ)を伴(ともな)い易(やす)く

華麗(かれい)と幽玄(ゆうげん=物事の趣が奥深くはかりしれない)という

対蹠(たいせき=二つの物事が正反対の関係にあるさま)的な景観を

示す場合も 少なくありません。

日本は 自然の風景美に恵まれた国であります。

一年を通じての 季節の推移が

変化を伴って 自然の上に鮮明に現れることは

天地の生命を 豊かに反映している証(あかし)であり、

それを敏感に採り入れて

日常の生活の流れの上に 活気を与える方便(=手段)
としているのは

日本民族の 遠い昔からの生活の知恵であります。

それはまた

日本の美の特色を創り出した要素の一つでもあると思われます

私達は この日本の自然を 大切にする心

いつまでも 失いたくないものです。

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ひろさちや氏 『やまと教』 以下抜粋

この宇宙には

はっきりと 目には見えませんが

「気」が 充満しています

そして 私たちの体の中にも 「気」があるのです

外にある「気」と 内にある「気」が 上手く共振すれば

私たちは 元気になります やる気がおきるわけです

その「」が「」なんです。

この宇宙に充満している「」が凝縮されたものが「モノ」です。

伝統行事に 「針供養」がありますが

あれは、折れた針の内にある「モノ」の鎮めをやっているのです。

モノ」というのは霊魂なんです。そして「」もまた 霊魂です。

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東山魁夷(日本画家)---あの人に会いたい(TV) 抜粋

両方が一つに結ばれるのは

両方の生命の源泉が 一つだから と感じるからだと思う んですよね。

これが 

「木は植物で 人間は人間だ 生物の中で 人間が一番偉い」

という気持ちを持っていたのでは

いつまでたっても 発信音は聞こえない

そしてま た 向こうが 『生命はつながっているものですよ』と言ってるのが

聞こえな いような気がします。

”樹木の家族” ジュール・ルナールの博物誌から